ケンゾー先生に訊いてみよう

  
 さて、こちらのエントリに対しての反対意見です。
 非常に今更感はあるのですが、本人が気にされていたので、書きます。
 もちろん私の反対意見というのは、「上から目線で説教するって何様だ」という偏差値のやたらと低いものではありませんが、話は単純です。
 いいじゃん。はしごたんなんだから。
  
 私だって、基本的には反対しますよ。
 セックスを一発だけやらせて、なんてものに積極的に名乗りを上げる男に、基本的にはまともなのがいるはずはありません。
 深く傷つくことだってあるでしょう。
  
 例えば私は、女性が何らかの事情で苦界に身を沈もうとしているとき、その関係性において可能な限りの労力を惜しまずに、その道から外れるように努力するでしょう。
 売春婦というのは差別されるものであるし、私自身差別するし、さらには精神が病んだり荒んだり、下品になったり攻撃的な性格になったり、止める理由は山ほどあるのに、リターンはお金以外にはほとんどないでしょう。
 さすがにはしごたんが売春婦にまで身を堕とすというのならば、私も口先と感情で止めようとは思いますが、このときの件(一夜限りの性交)については、そこまでのものでもないでしょう。
  
 童貞の私から言わせて貰えば、別にセックスぐらい良いじゃねーか。お前もやったんだろ。それで自殺でもしたのかよ? 一発ぐらいやったって大した問題じゃないでしょ。
 「そんなことろくなもんでもないよ。いいもんじゃないって。セックスなんて無理にするものじゃないよ。傷つくよ? 私はやったけど」なんていうのは鬱陶しくないですか? まぁ、「やめたら?」とは言ってないわけですが。
 大野さんであっても、このときのことは今となっては「悪い思い出」程度になっているわけでしょ。
 はしごたんの性を大切にしろとか、他人の性で遊ぶなとかいう奴は、私ほどに性を大切にしているのかよ、とか思うけどなぁ。
 はしごたんも、一回のセックスで一皮向ける可能性だってあるわけだし、現状の精神状態と、セックスしてみて傷ついた精神状態と、どっちが悪いのか、という問題があって、例えば風俗で遊ばないと心に決めている男が風俗に行ったときに、どれだけの精神的苦痛を今後持つのか、とか考えると、自由意志の遊びによる性的な傷なんて、実はたかが知れてないかな?
 一方的なレイプならともかく、合意の遊びなんて、わりと処理できるような気がするけどね。

でも一晩か二晩だけの夢を心の支えにして、その時の思い出だけで生きていくには、人生は長過ぎる。

http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20071129/1196267730

 人生は長いからこそ、そういう経験があってもいいんだし、セックスは想像で補えるってものではないのだし、やってみればいいじゃない。やってみて「大したことない」ってわかるのもやってみなければわからないんだし。
 そもそも処女なのかセカンド処女なのか知らないけど、蜘蛛の巣が張ってもしかしたら出血を伴う一晩だけのセックスがそんなに思い出に残る楽しくて気持ちいいセックスになるはずがなくて、心の支えの思い出と言うよりは、よくあるほろ苦い思い出になるだけでしょ。
 しかしそれは、経験したからこそ、想像ほどに夢見がちじゃなかったとわかるわけで、ハズレはハズレを引いてみるまではわからない。ハズレを引けば、少なくとも引いたくじはハズレだとわかるんです。
  
 確かにそれであっても、他の女性であるならば、「セフレ」という地位に対して、止めようとはするでしょう。
 でも、自称、人を殺しそうなぐらい思いつめているのに、現状維持でどうするよ。座して死を待つよりも、打って出て活路を見出せ。人間五十年。下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか。
 リスクのある積極的な解決に関わるぐらいなら、消極的にただただリスク回避を目的に無為を求める考え方も理解はできるのですが、副作用を恐れて投薬や手術を受けないでいることのメリットがわからない。
  
 もちろん副作用で余計に攻撃性を増すこともあるでしょうが、もし準無差別的にカップルに対して街中で刃物を振り回されるよりは、一発でも情を交わしたというか性交した相手が差別的にターゲットとして襲われるのならば、その方が余程社会のためになると思います。
 セックスをする以上は、相手に刺されて殺されるぐらいのことはあるのかもしれない、という世の中は悪くないと思いますし。
 セックスしてもなおセックスした相手以外に殺意を持って街中で刃物を振り回すのならば、それはもうね、はしごたんが自決しろよ。それはもはや積極的に自裁していただきたい。あるいは親が始末して欲しい。
  
 それと、後腐れなくただやれるだけ得する男に対する反発っぽいのも見かけるわけですが、そんなね、処女なのか三十路過ぎのセカンド処女なのかとの性交が、そんなに羨ましい話でもないでしょう。
 「痛い、痛い、痛い、いってーって」とか騒がれて、自分のほうは満足することなく、上手くいってもはしごたんが人肌の温もりは感じられるとしても、男のほうは性的満足は得られないでしょう。
 よしんば得られたとしても、ストーカー化されて怯えて暮らすならば良いんじゃない?

 期待値が高過ぎ

  
 こちらの最後に「書きます」と書いて書いていないのを本人に突っ込まれたので書きます。
  
 私にとってid:hasigotanというのは、ネット上で数回ほどやり取りしているだけの関係性に過ぎなくて、ベターと思われる助言の押し売りぐらいはするけれども、金がかかったり、関係性を押し着せられるまでは親しくない。
 特に親しくしているわけでもないネット上の比較的やり取りの少ない知人であり、関係性としては、多少の手間や時間を割くことには自分の興味も含めて吝かではないけれども、お金を援助したり、責任を持って人生をかけて付き合うほどには関係性は深くない。
 過重な手間やコストをかける気はないけど、はしごたんが今よりも幸せになればいいと思っているし、多少な手間やコストは自己満足も含めて、かける程度の関係性とは言えます。
 「多少な手間やコストなら自己満足も含めて相手の都合の如何は別にかける程度の関係性」とは、言ってみれば野次馬でしょう。ブックマークコメントで言及する程度の関係性の典型的な部類だと思っています。関係性に多少の濃淡はあれども、ネット上の関係において、はしごたんに比較的好意的な人も含めて全てこの範疇に収まるでしょう。
  
 さて、「はしごたんにとって正しい」というのと「自分にとって賢い選択」についてです。
 普通に考えて「自分にとって賢い選択」というのは、関わらないことです。あるいは効果が無くとも病院を勧めてみたり、無責任に同情して見せたり、というのが、自分は安全圏で優しくて正しいことをしているように思える。これは最高です。だからひとつも間違っていません。
 ただし「はしごたんにとって」となると効果が無いから、その意味ではオ○ナニーです。繰り返しますが、自分にとって賢いのは間違いないです。だってオナ○ニーは気持ち良いでしょ? オナニ○ー最高! みんなもオナ○ニー大好きみたい。みんなオ○ナニーしまくりだよね。
 凄く気持ち良くなっちゃってる人もいっぱいいるみたいなんだけど、「オナニーするな!」とか怒鳴りながら自分も無自覚でオナ○ニーしてオールガ○スムスに達しちゃっている人なんかもいて、それぐらいみんなオ○ナニーが好きみたい。
 それでid:Masao_hateさんは「もうはしごたんには届かないでしょ。届かないんだったらうちらのオナニーじゃん。じゃあどうすんの?」というわけですが、そもそもオナ○ニーがしたいんだから、どうするもこうするもなくオ○ナニーをするんですよ。まだしてるんですよ。私もオナ中ですよ。話を気にしている全てが野次馬で、みんなオ○ナニーです。
  
 Masaoさんは、その「自己満足も含めて相手の都合の如何は別に多少な手間やコストならかける程度の関係性」の人たち*1 *2に対して、「(はしごたんを)どうするの?」という一段上のステージの係わり合いを求めたわけです。
 でも、それはそれぞれの関係性の問題ですからね。誰もがはしごたんにコストや手間をかける義理はないわけで。
 実際「地雷」としての手間とコストとリスクは大きいです。Masaoさんもいきなり最大の試練がきたから早々の撤退だったわけで、それは別になんにも悪くない。
 これを「可能性として予想できることだった」的な意見が散見されますが、遠からずならともかく、いきなりの可能性は低いと思っていました。
 で、Masaoさんが、はしごたんに思わせぶりな行動をして期待を持たせて、その結果、期待を裏切って落胆させたということで、批難するというのは、それはちゃうやろ。
 そんなん、私に優しかったイイオンナは、みんな謝れよ!!!
  
 失恋というのは、期待をして、その期待に裏切られて、そういうものでしょ。その期待をしているときは幸せなことが多いんだし、仮にそうではなかったにしても、失恋はもちろん恋愛も不条理なものです。
 最初から騙すつもりの不誠実なものや、そもそもが結婚詐欺的なものでもなければ、失恋は、期待を持たせられて裏切られるものだと諦めるより仕方が無いのがほとんどです。もちろんはしごたんも例外ではありません。
 愛情であれ友情であれ、片方の思惑に違い、悲しくも終わってしまうことは誰しも経験することでしょう。恋人関係になる覚悟がなければ友達関係になってはいけないというわけではないわけですよ。
 「セックスを期待する可能性がある」からといって何だと言うんだ。私だってnana沢尻エリカ加藤あいや愛撫紗季みたいな美人や可愛い子と知り合いになれたら、普通にセックスを期待するよ。キングペレだって期待するだろ。それで期待を裏切られて生きてんだよ。nana、やらせろって。
 最初から傷つける目的ならばともかく、Masaoさんはただ「友達になろう」という目的での呼びかけだったわけなんだから、別に問題ないでしょ。「セックスを期待される可能性」で批難されるんであれば、美人は誰とも友達にもなれないじゃん。
 「はしごたんは特殊だ」というのならば、仮に「特殊」だったとしても、だから「友達になろう」という呼びかけが許されないとするならば、それこそ「特殊」であることの「改善」がみられないでしょ。腫れ物に触るように、というより触らぬように隔離せよ、という意図でもあるまいに。
 で、もちろんMasaoさんがセックスを断るのは自由意志で勝手だし、誰と純粋に友達になりたがっても誰かに批難される話でもない。
 まぁ、このコメント欄で大口を叩いている狐子の見苦しさは特筆すべきものがありますが、今は見っとも無い居直りですから、もはや故意犯なのでどうしようもない。サブアカの卑怯者なので論外。
  
 で、Masaoさん非難で一番多いと思われるのは、面倒見切れないんだったら関わってはならない、というタイプのものでしょう。
 酷いのになると「絶対に優しくなんてしてはいけない。絶対に関わったりしてはいけない。」とまで書かれていて、阿呆か。
 交際開始時から全力で一生の面倒を命を賭けてみるなんて、どこまでハードルが高いんだよ。期待値が高過ぎるだろ。
 普通の恋愛においても、その姿勢を持つことは当然だけれども、それは「どんなことがあろうとも」という「絶対的」な条件ではなくて、実際に交際したら後から見えてくるものや、あるいは逆に、交際の積み重ねとともに肉付けされて強固になっていくものであって、用意ドンの最初から「絶対的」なものを求めたって、スタート地点での「絶対」なものは全く無価値なくだらない偽物でしかない。全ては積み重ねて築くもの。
 はしごたんに必要なものは、「絶対に裏切らない一生の大切なパートナー」などという弥勒菩薩ではなくて、普通の交友関係と、普通に誰もが傷付くように傷付く普通の経験でしょう。
 「傷付けるといけないから関わってはいけない」なんて、「生きていると辛いことがあるかもしれないから死になさい」とどれだけ違いがあるのか?
 はしごたんも、普通に失恋すればいいんであって、最初から意図的に騙す意図や傷つける意図が男にあるのならばともかく、失恋は失恋として受け入れられる心を持つべき話だ。今回のあれが失恋なのかどうかは疑問を感じますが。
 それでも失恋は死にたくなるほど辛いものではあるけれども、当たり前の話ながら、それははしごたんに限った話ではなく、誰だってそう、僕だってそうなんだ。
 だけど、私は、好きになっての失恋は、楽しいことも多いから感謝しているよ。好きにならないほうが良かったというのは、有り得ないね。有り得る人も多いんだろうけど。
  
 「はしごたんには人並みの失恋もさせてはいけない」なんて、そんなのが善意のつもりならばどうかしてるよね。
 失恋で傷付いて自殺するならば、恋愛という宗教の大義に殉じて悠久の存在である神エロースと融合して、それはそれで仕方が無いんじゃないの? 恋愛の自殺者なんて他にだっていくらでもいるんだから。それとも全ての恋愛自体を禁止しちまうか?
 まぁ、自殺はしないに越したことはないわけで、避ける努力はするべきですが、その方法が「人間の通常の生活からの排除」というのは本末転倒でしょう。他者との関わりの中で傷付くことも傷付けることも人間関係の構築の一形態なんだから。
 最初から一生逃げずに責任を負う奴しか相手にしちゃ駄目って、どこまでハードルが高いんだよ。もはや「誰もはしごたんに関わるな」と言ってるだけじゃん。誘いたい奴が軽く誘える環境にしてやれよ。
 「一生逃げずに命懸けで責任を負う人が現れるといいですね」って、そんな奴が存在するわけないだろ。どんな志願兵決死隊だよ。
 交際を重ねた末のことならばともかくね。
 「行為することによって起こったマイナス」が、「行為しないことによって起こったマイナス」よりも、はるかに大きく見積もられているだけの話で、Masaoさんのしたことは悪いことではないよ。
  
 結局、「精神科に行け」というのは、楽でリスクのない助言ではあるのだけれども、もう少し善意があるのならば、ベターな現実的処方箋としては、世の中に良くある不幸も含めて、特別な悪意なく普通に扱うことでしょう。
 精神科は、投薬などで衝動や鬱の対処にはなるでしょうが、人間として生きていくには、人間の中で生きていくしかなく、寛解に近づくには他者との交流が不可欠です。
 Masaoさん程度の傷付く話なんて普通の人生で屁みたいなもんなんだから経験するのも仕方のないことだし、狐子のような莫迦だって世の中にはいくらもいるわけで、普通の人生経験ができたわけです。こういうのをいくつも乗り越えられれば良い方向に行くんじゃないですか? まぁ、狐子はもっと罵られればいいと思いますが。
  
 実際問題、はしごたんの不幸具合と言うのは、それなりには不幸だけど、そこまでも不幸なわけでもないし、いっちゃなんだけどそこまで言うほど大したわけでもないんだし。そりゃ私と比べたら私のほうが比較にならないぐらいに遥かに恵まれていますけどね。
 とりあえず、借金が解決に緊急性を要して、解決すべき問題だから、借金の原因によっては免責が利くのかどうかはわかりませんが、ギャンブルや散財でなければ、なんとかなる可能性が高いから破産すればいいんだし。問題は誰から借金しているのか、ですが。銀行などの金貸しからなら問題ないでしょ。
 人生相談で大病院に来られても困る精神科医はいっぱいいるでしょうが、開業医は喜ぶところもあるでしょう。田舎のほうには個人のメンタルクリニックは少ないのかな? 個人的には、はしごたんがなおすべきは病気ではなく性格の甘えだと思いますけどね。私のように甘えていても生きていけるならば良いんですけど、そうではないようですから。
 あと、はしごたんに限らず、例えば「上から目線」という「批判」が存在するのですが、指摘や言及は基本的に「上から目線」です。
 「お前の発言は上から目線だ」という指摘自体も当然ながら「上から目線」になります。「上から目線で言うな」という発言が既に充分に上から目線ですから、注意が必要だとかなり上から指摘しておきます。
  
 ともあれ結論としては、はしごたんと親しい人が、たとえ結果的には傷つけることになろうとも、気軽に仲良くなれることこそ、はしごたんにとって一番良い状況であることは間違いないでしょう。
 私ははしごたんの家族でも親友でもないので、それ相応の関係性の内に納まっていますが、善意の人たちはもっとガンガン頑張ってください。
 まぁ一番大事なことは、借金の免責もしくは完済であって、その確実で手っ取り早いのは破産手続きだと思います。まずはそれをどうにかしないとね。
  
 さて、ようやくこちらのエントリに対しての反対意見ですが、長くなりましたので次回にでも。

*1:もちろん「病気」を悪化させかねない優しいコメントをかける人も含む

*2:もちろん「病気」であると仮定した場合ね

 愛しのブロガー様へ

  
 id:sweet_nanaさんのことを思い募らせる時間が長くなってきた。
 nanaさんの超可愛い写真を見て、嗚呼、nanaを早く抱きたいと思ったのです。
  
 nanaの着ている浴衣の裾をそっとめくってみる。跪いて、立っているnanaの顔を見上げながら、nanaの白く透き通るような太ももにゆっくりと舌を這わせる。
 nanaの美しい顔がみるみるうちにピンク色に染まり、可愛い口からは微かな吐息が漏れてくる。
 私はわざと焦らすように時間をかけて丹念に肌を舌先で愛撫しながら足の付け根へと頭を上げていく。
 nanaが手のひらで私の頭を抱えるようにする。私の髪をくしゃくしゃにしながら、自分のおま○んこへと誘導するように頭を撫でて腰をくねらせる。
 私はnanaのパン○ティを横にずらし、おま○んこに軽く接吻する。小陰○唇に沿うように舌をペロペロと動かしながらクリ○トリスにまで達すると、nanaはひときわ大きな吐息を漏らし、膝の力がガクンと抜けた。
 nanaのおまん○こはもうとっくに濡れ始めている。私はnanaの愛液を掬うようにして舐めると、nanaの身体はビクンと反応する。
 そんなnanaを想像していると、私のおちん○ちんは、はちきれんばかりに勃起するのです。嗚呼、nanaが私のポークビッツのようなビッグマグナムをお口に含んで愛してくれたら……
  
 nanaにフェラ○チオしてもらう想像をしていると陰○茎がちん○こみたいに勃起したので、そのまましごき続けると… おおっ、おぅふっ…って、と、とまらないようぅ。。nanananaのおま○んこ… 欲しいようって心の中で何度も繰り返しながら、モンキーバナナのようなバズーカから射精するまでしこしこやってました。
 あー、nanaのおまん○こが欲しい。何度イってもすぐにまた性欲が沸いてくるんです… ぜんぜん足りない。nana欲しい、nanaのおま○んこが欲しいー! はいはあ! はあ! はあ! はあ! テンション上がってきたよ!!!!スンマセン
  
 こんなんされたら、普通にドン引きだわなぁ。
 女がやっているから許されるのか、「弱者」としてやっているから許されるのか。男から女ブロガーにいきなりこんなエントリをあげたら、ほとんど犯罪だわなぁ。超非モテが悩みながら血を吐くようにして書いたとしても、ここまで許容などされないでしょうね。私はいくら書かれてもOKという女性がいましたら挙手をお願いします。
 まぁ「誰でもOK」でノリノリとはいえ、あっと言う間の短い間とはいえ、曲がりなりにも失恋したばかりだから、このあたりの突っ込みはこれ以上は自粛します。
  
 私はid:Masao_hateさんに対して、私はMasaoさんは好きなのだが(でもセックスはできません)、オナニー呼ばわりした相手にも、一言が欲しかった。このエントリだって、はしごたん以外の他者の目を気にした保身オナニー的要素だってあるんだろうし。と書いたのですが、実はMasaoさんに同情的です。
 「俺が覚悟と誠意というものを見せてやるよ」と名乗りを上げたは良いが、一体全体何がどうなってこうなっちゃったのか、突然に「フィジカルにセックスOKな?」といきなり最大にして最高の「覚悟」を試されるという、通常では有り得ない展開だったわけです。
 何処の世界で、助走もしていないスタート段階から「最大の試練」で覚悟を試されることになると思いましょうや。
 出来る範囲で手を差し伸べるつもりが、いきなり人生に関わりかねないほどの試練に直面する。
 もし私が同じ立場にあるとしたら、我が事ながら「なんでだよwwwww」と爆笑すること請け合いです。逃げるしかないわな。
 「仕事が決まってないけど東京に行くよ」と私が書いて、nana以外の誰かが「おいでよ。楽しみに待ってるよ」とか書いてくれて、それで私がそいつに「お前がおいでと言ったんだから、最低限の生活は保障しろよ」とか言い出したら「なんだそりゃw」でしょ。
 ネットをはじめ多くの人間関係なんて所詮は他人事なんだからさ。そんなところで「もし私の実の息子ならば上京には殴ってでも反対します。せめて仕事を見つけてからにしなさい。そのほうがあなたのためです。地元ではだめなんですか?」とか言わないでしょ。まぁ「瀧澤、てめーに東京は似合わない。来るんぢゃねーよ(by翔太)」ぐらいの助言なら出来るでしょうし、すべきと言える部分も有りますが、今回のはしごたんの件は、それすら超えちゃってますからね。
  
 ということで、基本的には、当たり前の話ですが、Masaoさんはなんにも悪くない。
 「俺が覚悟と誠意というものを見せてやるよ」と言っちゃって、他人をオナニー呼ばわりしたことだけが気になる程度です。あと、これは重要ですが、断りはメールでやりましょうよ。さすがにちょっと機微な話なんで。メールで解決しなかったら公開に流れるのも仕方が無いけど。まぁ、私に言われたくは無いでしょうが。
 で、とにかく、Masaoさんが逃げたこと「自体」は、ひとつも悪いことではないし、性交を断ったことと関係を絶つことは、失恋としては悲しい事実ではあるけれども、それ自体はしゃーないやろ。悲しいかな、人間関係とはそういうもんでしょ。
 縁を切ると「一人で判断してしまっていいのだろうか」とか「てめーで判断するのかがわからない」とか、そんなん普通の話でしょ。悲しいけれども、そういう話だよ。今回はどっちも悲しいというだけで。
 そして、私は、Masaoさんの他人をオナニー呼ばわりしたことが気になるんですけれども、ならば逆に、手を出さない腫れ物に触る対応が「はしごたんにとって」正しいのかと言えば、そうとも言えないわけです。ここでも「所詮は他人事」という意味においての「自分にとって賢い選択」でしかないとも言えるでしょう。それで充分なんですけどね。
  
 ということで、こちらのエントリに対しての反対意見なども含めて、野次馬問題とも絡めてまた後日。

 「仄めかしメソッドネタ」にまじになっちゃってる人ってなんなの?

  
 媚びからの一連の流れを見ていて、なーんかモヤモヤした違和感があったんだけど。
 ツィッターで何人か怒りまくっているみたいなんだけど、まじになっちゃってる人は余程行間が読めないのか、「芸」についての観念があまりにも自分とかけ離れているのか。別に喧嘩を売りたいわけでも嫌味言いたいわけでもなく、純粋に不思議に思った。
 なんてね。
 ともさんものがみんさんも、ツィッターでプロテクトかけて私から見えないところで愚痴愚痴言ってないで、直接「言いたいことを言」えばいいのに。
 「言論の自由」を言うのであれば、こちらも言論のみを利用して話をしているんですから、正面から「言論」で反論してきたらいいのにね。まぁまた「話すだけ無駄だから」というコテコテの手法で自意識を守るのかな?
 まぁ私はガンガン気にせず言い続けますから、好きなだけ愚痴っててくださいね。自意識は大切ですから。頑張って守ってください。
  
 で、ブックマークなどへのお返事。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20071118%231195327655
 id:quiznosさん

公平を目指す姿勢は素晴らしいと思うけど、実際は難しいと思う。誰しも自分の好きな人に肩入れしがち。// 仄めかしメソッドについては、決定的決裂を避けるための手段の一つなのかも。しかし裏目にでることもw 

 仄めかしに関しては、別に有っても良いと思っているんですよね。ガンガン顕名でやり合うほうが揉めるでしょうし。ただし「私か?」という前提の相手が来て、それがもしも違うのであれば、そこは仄めかした方が「紛らわしくてすみません。インテリ眼鏡とはてらっかおさんではなくて草さんのことでした」と言うのが望ましく、「そんな自意識過剰に反応されても困るんですけど」みたいな対応をされると、仄めかし以上に嫌な思いをさせようかと思うわけです。
 あと、これは直接quiznosさんにというわけではないのですが、id:tomo-moonさん宛に言うと、私自身がネットもしくははてなの警察でも裁判官でもないのですから、私自身が全ての公平のために働かなくてはいけないというはずがないのであって、残念ながらその手当て等も一切もらっていない。個人情報の暴露や物理力行使などの違法行為などは別ですが、お互い様でなんでもありでやり合うことが、ネットで実質的に野放しになっている「公平」さでしょう。「たいして彼の興味なさそうな人が叩かれていても知らん顔なんだし」なんて批判をまさか真顔で言ってはいないでしょうけど、私はネット上の全てのログを監視しているわけではないし、むしろネットや特にはてななんか見てないほうだし、なんでこんな子供染みたイチャモンを付けるのかがわからないなぁ。
 ついでに言っておくと、私は私の超可愛い子猫ちゃんには注意が必要だと思うときには注意しているし、さらに言えば、ともさんが仔猫ちゃんとやりあっているのはお互い様なので、基本的には止める必要も感じていません。ともさんが誰の悪口も言わずにいるのに、うちの姫がともさんに一方的に攻撃しているのならば、私は止めますけどね。まぁ、お互い様にもかかわらず、止めなくても良いのに止めたりもしたけどね。お互い様なのにnanaを止めてるんだけど、これでも「落とし前」は必要ですかね? ともさんは自分もnanaを侮辱していることについての自覚はないのかな?
 で、quiznosさん宛に戻すけれど、公平を目指す姿勢は素晴らしいし、実際は難しいと思うけど、難しいから放棄して良いというわけでもないから大変ですね。「感情」と「論理」については、また後日にでも書きます。
  
 id:crowdeerさん

ツィッター断片部での悪口は触れてはいけません」これは誰が言ってるんですか?仄めかさないで書いて下さいね。

 まず、この「仄めかさないで書いて下さいね」は、どのような意図で書いたのでしょうか? 仄めかさないで書いて下さいね。
 さて、答えますと、tomo-moonさんのツィッターはプロテクトされていまして、私には読めません。が、11/15に、ともさんは「どんなに気に入らない相手でも、ひっそり愚痴ったりしてる場まで押しかけていって嫌味を言うとかワタシには考えられないことなんだけどなあ」と書かれています。
 これは元々、私が知る限り、のがみんさんが書いていたのですが、のがみんさんの断片部はプライベートモードになっていて読めません。が、5/14に、のがみんさんは「心情を吐露しただけで叩かれるってのは何なんですか。心情を吐露したらいけないの? 断片部でもいけないの?」と書かれています。
 不思議で仕方が無いのは、crowdeerさんの、そのブックマークに、こののがみんさんがはてなスターを付けていることです。どういうつもりでスターを付けたのか、大変に興味深いところです。crowdeerさんに応援のつもりならば、人格が乖離しちゃっているのか、記憶力が追いついていないのか、多少気になります。
 そして、そののがみんさんの「断片部なんだから」ルールは、大野さんのウェブログでも話が広がったのですが、大野さんの旧ウェブログはエラーで見られません。なんなんだよ、もう。
 ということで、現在見られるのは、こちらのこの発言で如何でしょうか?

twitterはあれこれ気負わずつぶやけるから気にいってるけど、そこでの発言に一々揚げ足とられるんなら鍵かけることを検討するわ。

http://d.hatena.ne.jp/tomo-moon/20071114/p1#c1195081709

 ここで「触れるな」という「言葉自体」を言ったか言わないか、というのは問題には成り得ませんが、それはよろしいですよね? 
 明らかにツィッター断片部での文章に対して言及されることを批判的に拒絶しています。「触れるな」という読みは普通に可能ですし、もしそれ以外の意図があるのならば、おそらく本人から説明があるでしょうが、今のところは私に見える範囲で具体的には無いようです。
 「言及したわけじゃなくて、陰口を言っただけなのに、なんで本人が来るんだよ迷惑な」って文句を言ってると普通に読めるわけで、もはや私には理解不能です。 
 他人の陰口を言っておいて、気付かれたら怒る、って、まさしく凄まじい逆ギレ。
  
 id:mutronixさん

q{ツィッター断片部での悪口は触れてはいけません} いったい誰が言ってるんだ。

 上に同じです。しかし、これにも、のがみんさんが、そして、ともさんが、はてなスターをつけているんですよね。不可思議な話です。
 「月夜の晩ばかりじゃねーぞ! ただでは済まさないからな! いいか、覚えとけよ!」とは怒鳴ったが、誰も「危害を与える」ようなことは言っていない、みたいな話なんですかね? それが通ると思っているわけでもないでしょうし、まったく不思議な話です。
  
  
 ともさん
 リアルのワタシ像云々に関してですが、「ネットの活動からネット人格について批判するのはいいけど、生身の生活を見ていないのにリアルの人格を批判するのは許せない」みたいな話ですが、よくわからない話ですね。
 ネット人格とリアル人格って、そんなに区分して不一致なのですか? また、私が言及したリアル人格とは何なのでしょう? まぁ、そこまで考えていないでしょうから、これについてはまぁいいです。ならば「男に媚びる」というのはセーフなの? ともさんが言われたくないなら、ともさんに言われた人も、ともさんに言われたくなかったと思いますよ。自分が言われると大騒ぎで、他人には嫌がることを知っていて続けているのですか? まぁ、いいんですけどね。私も続けるだけだから。
 それにリアル人格というならば、id:ohnosakikoさんとid:nogaminさんの話の中で、のがみんさんが大野さんに、大野さんの職業に触れて「学生を教えているなどと私は信じられません。あなたの信用は少しは下がった方が被害者が増えずにすむのではないですか?(中略)同じことをきっと日常的にもしていらっしゃるはずですから、私のほかにも同じような目にあった人がいるはずですし、嫌われたり憎まれたりしているはずだと思います」と書いているのを読んだときには笑いましたけどね。これなんかリアル人格どころか、実生活にまで言及しちゃってますよね。
 これだって、大野さんがのがみんさんに「あなた不妊症で良かったね。母親がヒステリーだと子供が可哀想でしょ。被害者がなくて良かった」とか書いても差し支えないレベルですよね。大野さんは私よりも上品ぶっているので、そんなことは書きませんでしたが。
 あと、先日のエントリのどこを読んで「しちゃいけません!」と読んだんでしょうね? 明らかに逆のことを書いているんですが。
 私は何度も「愚痴るのも自由、愚痴に言及するのも自由」とか「だから、他者も批判するし、他者にも批判されるし、で良いんじゃないかな」とか、しつこいぐらいに、やり返される覚悟を持って「自由にやれば良い」と言っているのに、どうしてだか誤読をして、正反対の意味に取ってますね。
 それと、ここで書いた低学歴に反発されていますが、読んでの如く「旧帝大ナンバースクールに及ばない低学歴」という話をしています。
 これは別に、私が書いたものではなくて、最初の記事にも以下のように書かれているんですよ。

四年制旧帝大国立大学にいくレベルの学力があれば

http://d.hatena.ne.jp/gomi-box/20071109/1194613291

 そして、スポーツや作家や芸術系の「一芸」と認められるほどのレベルを学力に求めるならば、最低でも東大や京大レベルの「エリート」や準エリートに基準を置くのは当然だと思うのですが? 
 慶應義塾大学でも医学部ならばともかく、三流私大やKOは主席レベル以外を「エリート」などとは呼ばないのですから、逆に言えば、ここで言われる「非エリート」としての「低学歴」とは、この世の中の九割方以上が含まれているわけです。普通に九割以上のほうですよね?
 資産百億円以上を「富豪」と呼ぶ場合の、それ以外の「貧乏」に含まれたからといって、別にショックを受けることでもないと思いますが。
 それに、文意を読んでいただければわかると思いますが、まず私は「低学歴」であることが悪いことだとはひとつも書いていません。非エリートは愚直に真面目にコツコツ働くことで、立派に社会的役割を果たすわけです。エリートだけが人間じゃないし、エリートだけが立派じゃないんだよ。だから別にエリートじゃないというだけで卑下する必要は無い。ただエリートは概してエリートというだけで立派なことが多いけど。非エリートは、「真のエリート」に敬意を表すれば、それで充分に立派なんだし。
 そして当たり前ですが、ともさん個人に限定した話ではなくて、学歴格差という社会的な現実の問題についての言及です。もちろん、ともさんが「選ばれた一人のエリート」ではなく「その他の九十九人の中の一人」であって、そう言われて気を悪くする可能性については承知して書いているのですがね。
  
 大野さん
 「取説」におけるエリートと売り手と売れない人について、後日書きたいんですが、完全に時機を逸したな。
 要は、一芸があるとか、需要があるから、多少は地雷でも「取り扱いたい人がいるんでしょ? こういう私を受け入れてね」という勝者の振る舞いができるわけですよ。プライドの根拠があるから。「四流私大文系女子(取り柄無し)の取説」とか破壊力ありすぎてシャレにならんでしょ。自爆テロですよ。
 逆に「爽やかイケメンの取説」とかなら様相だけ変えて露骨じゃないかたちで女性誌とかに載ってそうだし。アンケートからのまとめならば「自分で書く自分の取扱説明書」に近い結果が出るわけだ。
 自分で書くと嫌味っぽくて敬遠されるという意味では、確かに男女の非対称性はあるのかもしれませんが、むしろそれよりは、「需要の有無」という、もっと身も蓋もない「強弱」の非対称性の問題に思えてきます。
 「非モテ女子取扱説明書」が、リアルで社交性の無い単なるブサイクだったら、処女とか一切関係なく、欲望の対象どころか、射殺ですよ。鼻持ちならないブスが処女であっても、有り難くなんか有りません。「だろうな」で終わりですよ。芽生えるのは「興味」ではなく「殺意」です。
 可愛いとかズバ抜けて頭が良い*1とか異常に社交性に長けている*2とか賞金女王とか芥川賞作家とか一芸があるならばともかく、「非モテ女子取扱説明書」なんて、私の友人Gに言わせるならば「ブスのくせに何を言っているんだ?」の左ハイでお仕舞いでしょう。

*1:成績だけぢゃなくてね

*2:これは普通にモテるか

 「仄めかしメソッドは全て私が引き受ける」

  
 「どうしてid:tomo-moonさんに酷く当たるのか」という意見があり、それに答えるとするならば、別にともさんに対して当たっているのではなく、「議論の治外法権」に対して当たっているのです。
  
 はしごたんの話のときでもそうだし、びせいそさんの話のときでもそうなのですが、ネットで議論や意見交換をする場合、私は原則対等な立場で行いたいという希望があるわけですが、例外的なポジションに立つ人、もしくは立とうとする人が出てきます。
 自分が他者を攻撃するにもかかわらず、自らが他者に攻撃を受けると「傷ついた」と「被害者というアンタッチャブル」と化し、傷つけた側を悪者にするという「治外法権」を壊したかったわけです。
 女性が多いわけだけれども、それはただ単に、男で「僕ちん傷ついたー」と泣き言を垂れ流す奴は滅多にいなくて、いたとしても、通常は「マザコンお疲れ」で済むわけで、どれだけはてな村が特殊だといっても、そんなのは複数人もいたりはしないでしょう。「そうかー、ボクちゃん、可哀想だったねぇ」なんて、大人の社会では考えられないわけですよ。
  
 ともさんがよく使う技で「仄めかしメソッド」というのがあります。
 例えば、すぐ上の「僕ちん傷ついたー」などがそのメソッドに依っています。
 この「仄めかしメソッド」って気に入らないんだよね。
 せめて「私のこと?」とか言われて、もし「違います」と言うなら、違う誰なのかぐらいは書けよ、とか思うわけです。
 というのも、否定するほうはあたかも「自意識過剰なんじゃないの?」みたいな態度であしらうことができる。仄めかして攻撃した上に、追い討ちをかけるように「自意識過剰なんじゃないの?」と侮辱できるわけです。そういうならば「じゃあ誰なのよ」みたいになるのは必然で、その姿をまた嘲笑できたりするわけです。これは汚い。まさしく卑怯者のやり口です。
 仄めかされて「これは俺のことだと思いますが」と反論を書いたら「あなたのことじゃないですよ。自意識過剰じゃないですか? 長々と書かれてもあなた宛じゃないので返事に困ります」と書かれたり、書かれているのを見ると、もうその相手の仄めかしには触れたくなくなります。大抵は「自意識過剰だと思われるから、反応しないでおこう」という「大人」な対応をするようになるものです。
 それこそ「子供」の思う壺です。味をしめて繰り返すでしょう。「大人」な対応が、仄めかしメソッドを甘やかせて増長と助長させるわけです。
 「仄めかして言っておけば、こちらが悪口を言っても、相手はきっと返してこないからね。返してきても『あんたのことぢゃないよ』でOKだし」と、言いたいことは言ってやりたいけど、自分が言われるのは嫌だという性根の人にはうってつけのやり方になっていくわけです。これは卑劣でウザい。こんなんで口を噤んで良いものか。
  
 ほとんど便衣兵やゲリラ戦のようです。
 あるいは「流れ弾に勝手に当たって大騒ぎされちゃーねぇ」みたいな。撃つならきちんと狙って撃てよ。
 そうなるとね、もうさ、手法を使う人を批判するか、買って出るしかないんだよね。
 いつまでもしつこく答えるまで「で、本当は誰のことを言ったの?」と言う。
 もしくは「いいや、断固として私のことを言及した」と言い張るしかない。
 明らかに関係のないところにもガンガン突っ込んで行く。
 「ギークなおネエさん」とか仄めかして誰かに皮肉を書いていたら、私がギークでもなければおネエさんでなくとも「俺のことかーっ!」と突っ込んで行くしかない。
 「あなたのことではありません」とか言われても「いいや、俺のことだ。俺に言及したな」と頑として引かない。
 「あなたはギークでもなければおネエさんでもないでしょ?」
 「そんな言い逃れが通用するか。これは絶対に俺のことだろ!」
 一周回って逆に格好良い。
 「釣り」という逃げ方に対して、id:feather_angelさんが「まじめに言っている人にとっては「釣り」とは罵倒であることもある。負けず嫌いが非難を浴びて逃げの口上で「釣り」使う時もある。複雑すぎて解らないのでネタでもマジレスしてやる」と意気込みを見せていて、これこそ、一周して正しい大人の対応でしょう。
 私がある人に「全ての仄めかしはお前が引き受けろよ」と要請したところ、「お前が『仄めかしメソッドは全て私が引き受ける』と宣言しろよ」と言われました。嫌だよ。すげー疲れそうだ。
  
 そもそも、たとえともさんが何度も繰り返して弁明しているように「O野さんはワンノブゼム。その中でも後の後の方」だとしても、「本人の主観」なんて公表された文章においては「読み方のワンノブゼム」であって、重要な参考意見のひとつでしかない。
 ましてやツィッターで「いやO野さんにカミツキ亀なわけじゃないのよ。まじで。いろいろうざいからリンクはしなかったけどw」と皮肉口調で触れるならば、最初から流れ弾になるように仕向けていたと取られるのも織り込み済みと考えるべきであって、そうでなければよほど想像力や人間関係の配慮に極端に欠陥があるという話にもなりかねません。
 ともさんもとっとと「ラヂオさんに向けて書いたんだけど、あのへんと関わり合いになりたくないから、仄めかして書きました」と言ったら良かったのに。
  
 因みに、ツィッターだろうが、断片部だろうが、公開された文章については容赦する必要はないでしょう。そんな「ツィッター断片部での悪口は触れてはいけません」などという「はてな村の掟」などというローカルルールを言われても、わしゃ村議会の政治の話なんて知らんよ。
 文章を公開するのならば、言及されることぐらい覚悟しようよ、そこはさ。まして他人の悪口や非難や批評を書いておいて「愚痴にまで言及される」も糞もないだろうに。なら、こっちのこれも愚痴だ。言及することならん。
 あと「まるっきり見当違いなワタシ像」とか、分析が見当違いであるというのは、自分本人がわかるという話ではないことぐらいはさすがに理解できてますよね? 「本当のワタシを知っているのは、ワタシだ」とか勘違いしちゃってます? 「自分」というのは、自己認識だけで規定されるものではなく、他者の認識で大きく規定されるものです。というか、そのズレで苦しんでるんでしょ? 私をもっと認めて、って。
 「自分」について、自己申告だけで規定されるのならば、裁判での殺意は全て否定可能になるわけですが、社会としてはそうなっていないでしょ。自己認識なんて参考意見のひとつに過ぎないのです。だから根拠と説得力の勝負になるわけですが、ともさんはやたらと「違う」と言うだけで、どう違うかの根拠と説得が足りていないように見受けられます。目を瞑って耳を塞いで「違う」と言いさえすれば否定されるという世界認識をしているわけではございますまい。
 個人的にはともさんがどのように自意識を守ろうともかまわないのですが、それは飽くまでもともさんが誰も攻撃していないときの話であって、自分は言いたいことを言って他者を傷つけるけど、自分は手段を選ばず自意識を守りますというのは、あまりにムシの良い話なので、私は認めません。
 もちろん、ツィッターだろうが、断片部だろうが、愚痴るのは全然OKですよ。ただ「揉めたくないから名前は出さないでおいてやるわ」みたいな自意識防御があろうとも、「反論を喰らいたくないだけの池乃めだかメソッドでしょ? それで通ると思ってるの?」と、空気も無視して書いちゃったりするわけですが。愚痴るのも自由、愚痴に言及するのも自由。はてな村はどうか知りませんが、それ以外ではそんな感じになっています。
  
 ともさんが私に言及されて気に病まないのならば、私もともさんに言及することに気を病む必要はないわけですし続けることも差し支えないはずです。もしも、私の言及でともさんが怒ったりアタマに来ているとするならば、ともさんが仄めかしでネガティブに言及している人たちも、怒ったりアタマに来ていると思ったほうが良いでしょう。自分が腹が立つのに、他人は怒らないとでも思ってるわけでもないでしょう。
 自分は批判したいけれども、自分が批判されるのが嫌だというのは、多くの人間が内心ではそうであるのでしょうが、それをそのまま表に出してしまうから、ネット以外での他者とのコミュニケーションが苦手だったりするんだろうね。あ、これは私のウェブログで感想を言っているだけだから気にしないでね。まぁ、池乃めだか風に「アレの言うアレなんて気にしてないわよ」と言ってくれると信じていますよ。
 私は、ともさんも他者に対してネガティブなことを書かないのであれば、私はともさんに対してこのようなエントリを書くこともなかったでしょう。しかし、これでともさんが他者にネガティブな言及をしなくなってしまっては、ともさんも、ともさんの読者も、ともさんのウェブログが面白くなくなってしまうと思うんじゃないかな。だから、他者も批判するし、他者にも批判されるし、で良いんじゃないかな。早く打たれ強くなってね。
 私に対して、ともさんに酷すぎると思っている人や、あるいは喧嘩しないで仲良くして欲しいという人は、ともさんのネガティブ言及や仄めかし誹謗中傷で傷つけられている人のことを、どう考えているんだ? その人たちは心を痛めていればいいわけ?
 私は、ともさんが特別にアンタッチャブルの恩恵を得る理由はないと考えています。
  
 私にとっては「はてな村の空気」よりも、「治外法権を壊す」ほうが重要ですので、「はてな内コミュ能力」という高い政治力を背景にアンタッチャブルになられてしまうのは、はなはだ都合が悪いわけです。
 別にともさん個人が嫌いというわけではないので、アンタッチャブルであったり、治外法権でさえなければ、私はノータッチでも友好関係でもいいんですけどね。別にともさんその「人」が嫌いなわけではないので。
  
 ただ「愚痴るのも自由、愚痴に言及するのも自由」となると、ヴァーリトゥード状態になり、言論弱肉強食の世界になり「強い者が弱い者を叩き、弱い者が口を噤む」というネット社会になるのではないか、という懸念があるわけですが、これについては「弱い者が泣き言を言って何が悪いか問題」として、後日書きます。

 id:torlyさんは不親切過ぎるが本人は本当に満足なのか?

  
 文章を書いて公開するという行為には、そこには、自分の考えを部分的であれ理解されたいという欲求や、私の理解したことを他者に伝えたいという滑稽なまでに素晴らしい使命感などの、何らかの「わかってもらいたい」とか「共有したい」とかの意図ががあるわけです。
 もちろん、「感情を共感」的なレベルではなく、難しい概念的なことを伝えたい場合には、ある一定層以下のレベルには伝えることを諦める必要性はあって、最低限、これ以上はわかる能力のある人にだけわかってもらえばいい、という脚切りは発生します。
 たとえば「本当の私を誰もわかってくれない」と言う人に、「本当の『私』ってなに?」とか「あなた自身は『本当に私』を知っているつもりなの?」という説明以上に、わかりやすく説明するのも難儀なわけで、おそらくの場合は、優しくわかりやすく説明したってわかりやしないし、そもそもその程度の人が「自我」の概念について根源を知りたいと思っているわけがないのであって、「本当の私」は追究対象ではなく、自意識を慰める道具として利用したいだけであり、原則的にはそれで充分。
 しかし、そこで、もっと根源的に知りたいと思ってしまう病気な人間は一定数存在して、愚かにも苦しんだりすることを楽しむ人までいたりするから厄介だ。そういう人は、なんとか数少ない同志を求めたがるようである。
  
 それぞれが、それぞれの階層に応じて、自分の考えを部分的であれ理解されたいとか伝えたいという欲求や使命を感じてネットで文章を公開していると思われるわけなのだが、id:torlyさんはそもそも伝えようという意図があるのだろうか?
 torlyさんは、異常なまでに不親切と言うか、伝える気がどこまであるのかわからないほどにわかりにくい文章を書く。
 わかる人にはわかると言われるかもしれないが、異常に脚切りのラインが高過ぎる。
 おかげで読むのにえらいこと手間や時間がかかったり、文意を読み取っても、その意図で言っているのか、他の反応を見たりするといちもつの不安を感じたりすることがある。
 どう読んでみても文意を理解しているとは思えないような反応や、私とは全く真逆の意味に受け取っていそうな反応やタイトルに騙されているように映る反応を見ていると、少なくとも自分の意図通りに伝わっていない「意思表示」であって、それって果たして楽しいのかと疑問に思ってしまう。
  
 内容が高度すぎて伝わらないというのは、仕方が無いというのはわかるのだけれども、伝え方が不親切で伝わらないとなると、そもそも書こうと思った動機がわからなくなる。
 能力の問題とは思えないので、伝えたいことを伝わりにくく書くという本意がどこにあるのかが、大変気になる。

 これを書いた人を責めるわけではないけれどね

  
 id:b_say_soさんのエントリを読んで、そのエントリ自体には特にコメントをする気はなかった。

 しかし、その後、id:REVさんからブックマークコメントがついた。

ニュートンの法則は嫌いだ。重力定数は選べないのに重力からは逃れられないと脅迫されるようで嫌いだ。極論だと思われるんでしたら今すぐ風に落ちる林檎に手を差し伸べてください。拾ってください。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070915/1189870062

 私はこれを素直な問題提起だと読んだ。
 統計的にそういう場合が多いとして一般的に「事実」と言われていることに対して、「脅迫されるようで嫌いだ」という言説がどれだけ有効かという問題提起としてだ。
 「科学的」に、この詩に対して否定したいならば、「統計的にそのような事実はない」という証明をするしかない。
 あるいは「事実」はあるが、悪いのは親や子供本人ではなく社会である、という主張で、原因の主体を転嫁する(ズラす)という技もある。
  
 たとえば「スラム街出身の黒人による犯罪率が高い」という統計がある場合、それが「黒人差別を助長する」という理由では、その統計事実を否定はできない。
 ここでは「黒人差別反対」という信仰告白と、あるいは「統計」から傾向を見つけ出す「科学的」な思考の、どちらの価値観を優先させるかという、非常に重要な問題提起を生むことになる。
 しかし、逃げ道として、社会による差別と貧困が黒人の犯罪率を上げているのだ、という反論も行われている。そして一定の信憑性を持って語られているし、説得力も有している。だがそれは原因の主体を変えているだけで、「統計的事実」が変わっているわけではない。
 ここでもしも、遺伝子や脳の研究が進み、邪悪な思考というのが遺伝的に「黒人に多く備わりやすい」という「科学的」な「事実」が発見されたとき、これはどう解決したらいいのか?
 「科学」を優先するのか、「黒人差別反対」という宗教を優先させるのか、もはや「社会」に原因の下駄を預けるという逃げ道の猶予はない。
 科学を優先するのか、政治的妥当性を優先するのか。
 REVさんのニュートン力学は、その点を指摘している。
 「科学的事実」の前に、政治的妥当性という「宗教」は、どこまで有効なのか?
  
 アメリカでは進化論を信じていない人が少なくない。
 その理由は、聖書に人間は神が創ったと書いてあるからだ。
 ここには、「科学」よりも「宗教」を取る、馬鹿馬鹿しいまでの清々しさがある。
 先の詩の背後にある「暴力的な親に育てられた子供は暴力的になりやすい」という「統計的事実」を否定するならば、その「統計」を再追試するか、あるいは「宗教を取る」と高らかに宣言するか。
 その「宗教」を覚悟を持って選び取るならば、私は馬鹿馬鹿しいまでの清々しさを感じるのだろうが、どうもその覚悟が感じられない。「宗教を選ぶ」という自覚があってのこととは思えないからだ。
 私自身は、自然科学と社会科学は対等には考えられないし、「暴力的な親に育てられた子供は暴力的になりやすい」というテーゼにも「統計」としては若干の眉唾は感じるけれども、それでも「DQNの子はDQN」という世間知は持っているし、「人間」は環境が作る、という真理も知っている。
 「本当の私」というものは、「生来の私の資質」などという架空のものの影響などは無視してよく、「私」のほとんど全てを周りの環境や状況が作っている事を知っている。
 「自我」というものが「私」固有に備わっているなどと考えるのは、「近代」に生まれた「宗教」であることは、それなりの阿呆であっても少し考えればわかることだ。
  
 REVさんがニュートン力学という「科学的事実」から逃げられないのと同様に、「傷つけるから嫌だ」では「統計的事実」から逃げられないということを皮肉ともとれるロジックで書いた。
 それに対してb_say_soさんはこう返し、id:teraccaoさんも続いた。

2007年09月17日 b_say_so 人間性を疑う
2007年09月17日 terracao 人間性、というか、バカなんだからしょうがない。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070915/1189870062

 私は逆に、最高学府の院生ってバカしかいないのか? との皮肉が頭に浮かんだ。
 別に「科学的事実」や「統計的事実」よりも「宗教」を選ぶことはあっていいし、あって当たり前だし、私自身もそうありたい人間だ。
 しかしだからといって、自分が信仰している「宗教」の意に沿わない相手に対して「人間性を疑う」とまで言うのは、悪いとは言わないが、このポストモダンを経た時代に、それなりのことではある。
 自分の「宗教」を根拠に他者に「人間性を疑う」とまで書くならば、そう書かずにはいられないトラウマがあるのだったら、それを説明ぐらいするのが、人間性をも否定しようとする相手への礼儀だと思う。
 なんか、触れて欲しくないトラウマがあったんだという仄めかしだけで、それを根拠にして「私は傷ついているから私には触れてくれるな。しかし私は相手の人間性の否定もする」というのは、私には卑怯に映る。
 さらには、追記やコメント欄でも、怒りを表明し、何故かコメント欄も凍結されている。しかも「死にたい」という言葉まで使われている。
 先のエントリでも触れたから書くが、私もはしごたんと同じやり方だと思った。
 しかも、超高偏差値で、しかも美人(推定)という、比較的にかなり強者の人間が使う「私は傷ついた」というアンタッチャブル戦術は反則だと思う。
 自分は他者の人間性まで攻撃するけど、自分への攻撃は「私は傷ついてる」から黙ってくれ、というのは通らないだろう。そういうネタキャラならともかく。
  
 打たれ弱いが故に開き直ったり拒絶したりしたくなるというのは、私自身も弱いが故にわかるのだが、ならばどうして自分は他者の人間性を否定するような言葉を吐くのだろう?
 自分は、考えに異論を呈されただけで傷つくのに、他者には人間性に言及するのは、元の詩の内容を踏まえた場合にどうであるのかという下世話な疑問だって呼ぶだろう。
  
 誤解のないように言うと、私は「人間性を疑う」と書くなと言っているわけではないし、むしろどんどんと書けばいいと思っているわけで、さらに言えば「人間は平等であるべきだ」という「宗教」はあっていいと思うし、その「宗教」への狂信的盲信が高じて「事実」の方を否定することだってあっても良いと思っている。
 しかし、自分は罵倒や非難や皮肉を言うけれども、相手に言われることをことさらに「傷ついた」と主張したり、反論ではないかたちで相手の口を封じようという姿勢や開き直りはどうかと思う。もちろん開き直るのは自由であるが、それに付き合って口を噤まねばならない道理はない。
 「傷ついている」とアピールした者勝ちの空気はどうにも性に合わないので、空気を読んだ上で従わないつもりでブックマークコメントを書いた。
  
 すると翔太からクレームが来た。
 「ネガティヴなブックマークコメントをつけるな。それぐらいなら反論エントリをきちんと書け。ブックマークでネガティヴなコメントを残すのは卑怯者のやるみっともない振る舞いだ」
  
 私は以前、b_say_soさんの意見に反対意見のエントリをあげたことがある。
 別にb_say_soさんの人格や人間性を批判する内容ではなく、反対の意見を主張したものに過ぎない。
 そのときに、b_say_soさんは自らのサイトをプライベートモードにしたことがあった。私への返答のエントリがあったにもかかわらず、プライベートモードで肝心な私が読めないという不可思議な状態だった。おかげで議論はそこまでで止ってしまっているが、今は読めるようなので私のほうから沈黙したかのような状態になっている。
 その際に「普通に議論なんだから反論すれば良いのに、プライベートモードにしたことで『瀧澤に傷つけられた』と悪者にされて大変だね。ザマーミロ」というメールをいただいた。
 私は「私が原因ではないと言っているようですよ」と返答したのだが、さらに「原因ではないと言うのならタイミングを考えないとね。ちゃんと悪者にされてるよ。ザマーミロ」と追い討ちをかけてきた。
 そういう出来事があったので、私は翔太に「またプライベートモードや閉鎖されたらかなわんからエントリであげようとは思わない。コメント欄も閉鎖されているからブックマークコメントしかないだろ」と返事をした。
 しかし翔太は「プライベートモードになったことがあったとしても、それでも正々堂々とエントリで書くのが筋ではないか。相手に関係なく、エントリでやって欲しい」と言う。
 正直、私には賛同できない*1部分もあったのだが、はしごたんのことも書いたし、b_say_soさんにもアンタッチャブルにはなって欲しくないので、エントリで改めてあげることにした。
  
 「人間は平等であれかし」という希望は、人権主義という宗教には当然であるが、環境どころか親すらも選べない「事実」の前には、その希望は儚い。
 母語や文化を含め、人間は環境によって作られ、環境から逃げることは容易ではないという「現実」を前に、宗教的希望を根拠に抗ってみても虚しさは残る。
 それぐらいならば「似た環境や境遇でも立派な人はいる(チャンスはいくらでもある)」という希望に縋りながらも、「育ってきた環境も含めて自分である」と認めたほうが建設的に思える。
 「全て環境が原因である」と永山的に考えることもできるが、私としてはそこまで近代主義者でもないので、実務的手段として、責任は個人に帰結させてしまえば良いと考える。
 「運が悪かったね」と。

*1:過去のことがあるのに「正々堂々とする必要があるのか?」という点