童貞をこじらせた以上はその克服のための困難は死ぬまで続く

  
 さて、私はこれぐらいが出来なければ惚れた女に振り向いてもらえないというのを、童貞として現実的な、なおかつ最低限のラインとして提示しました。
 これぐらいなら頑張ってみようかという甘い考えの童貞もいることでしょう。舐めてますね。自分が非モテであることを忘れてはいけません。童貞は大きな勘違いをしているのです。百歩譲って上手くいったとしても、ここからが大きな落とし穴が仕込まれているのです。安住の地である童貞を捨てて、至る所に罠がある世界に踏み出したいのか?
 恋愛は誰にとっても理想郷であると言うわけではないのです。非モテはどこまでも非モテなのです。そこで童貞は大きな勘違いをしているのです。
  
 童貞というのは、ついつい交際に持ち込めた時点がゴールだと勘違いしがちです。そんな莫迦なはずがない。モテから見れば、交際開始がスタートですよ。でも童貞、とくに非モテはそれをゴールと思い込みやすい。
 童貞は、ゴールだと思っているスタート地点が、遥かに遠くにあるうちは、みんながみんな「俺は彼女が出来たら大切にします」なんて、新入学生のような純真さで、真剣に思っているのですよ。そのときの気持ちには一片の曇りもない。心からそう思っているのです。命懸けで大切にするんだ、みたいな。理想に萌える民青かよ、という。
 ところが、やっとたどり着いたところがやっとスタートだと知って、心が萎えたりします。
 なんか、必死に1500m走を走ってきて、やっとゴールにたどり着いたと思ったら、それが実はマラソンのスタート地点だった、という感じです。こんだけ辛く走ってきたんだからここがゴールだろう、なんてのは、一方的な都合です。女性はそんなこたぁ知ったこっちゃないわけですよ。スタートをゴールと思われては女性にとっても迷惑です。
 でも、スタート地点までの道のりがあまりに遠いために、スタートをゴールと勘違いしちゃっているわけです。スタート地点なのに、ゴールだと舞い上がっちゃって、まぁ、阿呆ですわ。あまい、アマイ、甘い、天地の茂ちゃんなのです。
 ここからのさらなるマラソンに参加する意思のないもの資格のないものは、最初の1500m走にも出場しちゃいけなかったんですよ。いいか、君たちは場違いなんだ。童貞として生まれてきたんだから、童貞として死ねばいいじゃないか。
 結局、最初に理想に萌えていた「俺は彼女が出来たら大切にします」というのは、自分自身の達成感で吹っ飛ぶ危険性があります。もう全力疾走したじゃん。ご褒美ちょうだいよ、と。ねぇ、ママ。僕頑張ったからもういいでしょ? ご褒美くれないの?
  
 恋愛に馴れたものが「最初に優しくすると後が続かない」という理由により、最初に優しさを抑えて、だんだんと優しさを見せていく、という手段があります。
 童貞はこの逆をやります。最初から全速力で、すぐに息が切れ、後が続かないのです。これは最悪です。自分が童貞の非モテだという自己認識が欠けているとしか思えません。かと言って、童貞如きにモテ男のような高等テクニックなど端から期待は出来ません。ではどうしたらいいのでしょうか?
 息が切れても、全速力でマラソンを走りきるしかない。無理なら最初からエントリーするな。血を吐きながら走るんだよ。
 マラソンは、モテだってそれなりに大変な思いをしながらマメに頑張ってるんです。非モテなら、常に全力で血を吐くぐらい当たり前でしょう。その覚悟はきちんと持ちましょう。
 もちろん最初から参加さえしなければ、そんな酷い目に遭わされることなどありません。
 
 童貞というのは、無駄にイメージトレーニングだけは重ねていますから、それが逆効果になったりします。
 いわゆる「間違ったフォームが身に付いてしまっている」状態です。
  
 童貞というのは、運良くスタート地点につけた段階で、息絶え絶えになってしまっています。動くのが辛いと思うと、童貞というのは自分に甘いですから、すぐにエクスキューズに走るのです。
 童貞をこじらせてしまうと、イメージトレーニングとして「俺がそっけなくしても、女がついてくる」という、妙にハードボイルドチックな理想像を楽しんでいたりします。それがフォームとして身に付いちゃってるのです。
 もうちょっと童貞チックに言えば、オナペットの「ラムちゃん」です。うる星やつらの。
 どんな扱いをしていても、焼きもちを焼きながら健気にずっと慕って好きいてくれている可愛い女の子がいると思い込んでいる。確かにいるかもしれない。だがしかし、悲しいかな、非モテの童貞には、ラムちゃんでも愛想を尽かします。忘れてはいけない。非モテの童貞であることを。
 結局「彼女が出来たら大切にします」は何処へやら、自分のエクスキューズに走ってしまうのですよ。
 そこで使われるのが「俺は古風だから」です。
 本当は別に古風じゃありません。コミュニケーション能力に欠けているから、女性に対してそっけないだけであって、古風であるからそれに沿った信念があって、敢えて信念でそっけなくしている童貞など一人もいないと断言できる。ああ、できる。間違いないね。
 まぁもし、そんなのがいたところで斬捨て御免で斬ってしまえばいい話ですけどね。
  
 そんな誤魔化しがいつまでも通用するわけもなく、明らかに息切れもしているわけだし、交際としては間もなく末期が到来するわけですよ。
 「ねぇねぇ、お正月に晴れ着を着た写真だよ」 「ふーん」 「ちゃんと見てよ?」 「うん、見たよ」 「……」
 普段から、会っても話題もなく、興味のないテレビ眺めて笑って、テレビが終わったら会話も途切れ、微妙な空気が流れて帰っていく。ひ、悲惨だ。熟年離婚を控えた年金生活夫婦のようです。
 非モテは相手を楽しませたりできる話芸や、引き出しの中に充分かつ適切な面白エピソードのストックなどがないものだから、会話自体が上手く成立しません。
 楽しい会話とか、楽しい雰囲気を作るのに慣れてないものだから、相手の話題とかにも上手く乗れずに、つまらなそうにしてしまうことにより、相手の話題をも潰してしまうのです。潰されれば相手は警戒し、近い話題を避けるようになり、相手の話題の幅もどんどん狭めていくのです。そりゃぁ、相手だって弾切れを起こしますわ。
 相手を楽しませよう、喜ばせようという意識無しには、自分だって楽しくないだろうに。と思うのですが、童貞というのは、基本的に「負のオーラ」が身体から滲み出ています。相手からみれば、とても楽しめているようには思えません。普通はこの時点で斬り捨てられます。しかし酔狂な女性もいるものです。こういうのは不幸に不幸に行きたがる諦めの悪い女性だったりします。だめんず
 そして相手は「私と一緒にいても楽しくないの?」と不安に思うわけですよ。一応は「楽しいよ」と答えますが、それどころではありませんよ。もういいじゃん、だってもう疲れてるんだから、と。僕に居心地の良い場所をくれよ、と。自分は勝手に勘違いしていったんゴールしてる気分でいますからね。スタート地点なのに。
 自分勝手だから、相手を喜ばせることよりも、自分が優先になってしまうのです。しかも、非モテ童貞でなければ、愛する相手と一緒にいるのならば、相手を喜ばせながら居心地良くできるはずなのですが、コミュニケーション自体が苦痛の非モテ童貞にとって、愛する相手であっても気を使うコミュニケーションは苦痛になりがちなのです。一緒には居たい、でも会話は面倒臭い。恐るべし。非モテ童貞は健常者の常識を軽く超えています。
 何故にこんな無惨なことが起こるのかといいますと、童貞が諦めたからです。走り続けられないよ、と。諦めて甘えたから、惨劇は起きたのです。
 私からそんな童貞にメッセージを贈りたいと思います。
 人は歩みを止めた時に、そして挑戦を諦めた時に年老いてゆくのだと思います。この道を行けばどうなるものか。危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ、行けばわかるさっ。ありがとー!
 血を吐きながら続けるマラソンに参加するならば、迷わず逝けよ。
 ところが、童貞は自分に甘いので、すぐに歩みをやめてしまうのです。面倒臭い、と。自分に甘えるだけではなく、相手にも甘えだします。
 「会話したりするの、苦手だから、どうせ努力したって面倒臭いし無駄だから、だったらやらないほうがいい。僕が苦手なのはカヲル君、キミだって知ってるだろ? だったら良いじゃないかよ。わかってくれてるんじゃないのかよ。カヲル君だけは僕を認めてくれたって良いじゃないか。カヲル君、キミも僕を裏切るのか? 酷いよ、カヲル君。何とか言ってよ。お母さん、カヲル君が酷いんだよ。僕は一緒にいたいだけなんだよ。ねぇ、居心地を悪くしないでよ!」
 まぁ、ここまでいったら、非モテ童貞というより、もはや完全なる廃人と呼ぶに相応しいわけですが。
 もっとも、基本原則である「服を褒めろ」すら忘れて、晴れ着を褒める、という義務を怠っている時点で、もう恋愛に参加する資格もないんですがね。
  
 どうです? 面倒臭いでしょう。これでも惚れてしまった以上は惚れた相手と一緒にいたいと思いますか? 
 一生ずっと一緒にいるのならば、一生コミュニケーションマラソンに血を吐きながら参加しなくてはいけないんですよ。
 いつか、ランナーズハイになって、苦痛が麻痺してくるまで、この地獄のような苦しみはずっと続くのです。それを望んでいるのですか?
 生涯関わりのない人を好きになって一生を終えるのが一番良いではありませんか。それで我慢ができないのならば、血を吐き続けながらマラソンを頑張ってください。相手に迷惑をかけないようにね。
  
 この「恋愛至上主義」や「親密性パラダイム」が一人勝ちしているこの世界において、恋愛こそが正義であり、恋愛こそが権力と化している世の中ですから、恋愛とは極めて体制的なものです。
 私は、童貞に対して、この体制の中に組み込まれて体制の内部で勝負をしろといっているのではありません。
 負け犬として、情けなく逃げろといっているのでもありません。
 恋愛は体制です。体制から逃げることは、それすなわち負けを意味することではありません。確かに逃げてはいます。しかし、体制から逃走することは、体制と闘争することと同義なのです。
 恋愛に組み込まれることなく、誇り高く童貞であり続ける道を奨めているわけです。
 いいか、組み込まれた時点で勝ち目はないんだ。