「価値観を押し付けるな」という主張

  
 私が不思議でならないのは「価値観を押し付けられてしまう」と感じる人が多数いることである。
 これは「間接的な人殺し」という話のときに何度か目にした意見であり、近い発言をしたかな、という方はどなたでも反論していただいていいのですが、私は不思議なのです。
 というのも、そういう人は「よほど自分の意見に自信がないのかな?」と思わざるを得ないわけです。
  
 そもそも、意見の主張や議論などは、もちろん単なる発言であっても、自分の価値観を相手に押し付けるものです。
 意識していなくても、相手に好意的であれ敵対的であれ、同調してもらいたいがために、コミュニケーションをとるものです。
 もちろんそれは相互的であるわけですが、相手が相手の価値観から全く動かしたくないのであれば、そもそもコミュニケーションをとる必要がありません。
 意思疎通の相互確認も厳密に言えば、同調のための行為です。コミュニケーションと言うのは、ほとんどが同調を求める行為なのです。たぶん。
 コミュニケーションをとること自体が、コミュニケーションを必要としている、ということの押し付けにもなります。
  
 自分の価値観を相手に押し付ける気がない人間は、そもそも主張的な発言をする必要がないわけですから、黙っていればいいわけです。
 もちろん「押し付けてくるな」という主張も、その「押し付けてくるな」という意見を相手に押し付けようとする行為ですから、価値観の共有の強要であり、コミュニケーションです。
  
 次に、私がある価値観を持っていて、例えば「議論とは価値観の押し付け合いだ」という価値観を持っていて、それに対して別の価値観を押し付けられる、例えば「価値観の押し付けは良くない」という場合、私はそれに対して反発します。
 たとえがわかりにくいですね。変えます。
 私が「間接的な人殺しと言える」という価値観を持っていて、それに対して「そうとは言えない」という価値観を押し付けられたとします。
 そのとき私は、普通にそれに反発し、逆に私の価値観を理論を使って相手に投げつけるでしょう。
 私はそれを「うわっ、価値観を押し付けられている」とは感じない。普通に「反論をしよう」と思うだけです。少なくとも「価値観を押し付けるな」などとは言いません。
 だって、そんなことを言わなくたって、相手の論理がおかしいことを指摘したり、こちらの論理が成り立っていることを主張したり、あるいは事実で争ったり、いくらでも相手の価値観を拒む方法があるわけですし、もしもこれがないとするならば、それは相手の主張を認めればいいだけの話です。
 それをせずに「価値観の押し付けは良くない」というのは、それだけ自分の主張に、あるいは自分自身に、自信がないということではないでしょうか?
  
 だいたい私は、押し付けられる程度で、自分の価値観が変わってしまうような人は、大した価値観など持っていないのではないかと思えてしまいます。
 まぁ、大した価値観なんてものは、別段、持っている必要などないのですけどね。
 一人一票。民主主義というのは凄まじい思想です。
  
 そもそも、価値観と言うのは、複数の考え方から、どちらに価値を見出すか、ということです。
 別の考え方を提示されたら、それまでの自分の考え方と、提示された考え方と、優劣をつけて選べば良い。それが正しい「価値観」です。
 他者から提示される考え方に、「それは聞きたくない」「それを言ってはいけない」と、価値判断をすることなく拒絶するのを、価値観と呼べるのでしょうか?
 「それを反論し、つぶし、論破してやる」というならわかりますよ。「言ってはいけない」って、耳を塞いでいるのと同じじゃないですか。
 別に「耳を塞いでいる」のが一概に悪いとは言いませんが、ただそれは「議論」という場のルールにおいては圧倒的に不利でしょう。信仰告白に過ぎないわけですから。
 信仰告白でもいいんですけどね。
  
 ただ、この「押し付けは良くない」という主張の「押し付け」は、果たして「良い」のか「良くない」のか、どちらなんでしょう?