セックスをしてもいい条件

  
 ということで本題に戻りまして、先日の話の続きです。
  
 「自己決定権」の立場からは、必然的に、セックスをしても良いという条件は、「絶対に妊娠しない場合」、もしくは、「子供が生まれても良い場合」、の二つしかないことになります。
 結果的に育てさえすれば良いわけなんですが、今のところ、完全に近い避妊法はあっても、完全な避妊法はありません。
 もの凄く低い可能性ながらも、もし妊娠したら育てようか、という覚悟もないのにセックスしてはいけません、ということになるわけで、多くの場合、一緒に育てるということは、家族を形成するということです。
 つまり、「自己決定権」の行使によるセックスをする権利とは、「妊娠したときには家族を形成するとき」、という条件に限られるわけです。
  
 現状の大勢を占めている価値観とは大きく隔たってますよね。
 現状は「親密性パラダイム」が、セックスをしてもいい条件となっています。
 「愛がなければセックスをしてはいけない」 「愛があればセックスをしてもいい」
 恋愛至上主義に多い考え方です。
  
 非常に不思議な気がします。
 家制度、家長制度の強かりし時、結婚することによって世間に認められたならば、セックスをすることが許されてました。*1
 そしてそれが、家制度の悪弊であり、個人主義による、性の自己決定権として、女性の性の解放を理由に、結婚していなくても自由にセックスしてもいい、という主張が出ました。「性の自己決定権」ですね。
 その主張の根幹である「自己決定権」を、厳密にすればするほど、「妊娠したときには家族を形成する」条件でしか、性の「自己決定権」は論理上、有り得ないということになります。
 つまりは、家長制度の強権や世間の圧力であってしても「結婚」することが条件であり、あるいは「自己決定権」で考えても、「妊娠したときには家族を形成する」という、極めて「結婚」に近い条件に落ち着きます。
 「性の自己決定権」というのは、ちょっとしたコントだった、ということです。
  
 恋愛至上主義や親密性パラダイムによる「愛があるセックスが正しい」「愛のないセックスはいけない」という考え方は、「自己決定権」という思想からは不充分なのです。
 つまり、「愛があればセックスをしてもいい」という主張をするのであれば、「自己決定権」という、実は憲法の根幹にも関わる重要な概念を蔑ろにすることにもなるわけです。
 「愛があればセックスをしてもいい」という考え方をする人は、「自己決定権」を主張する権利を実は有していないということです。
  
 もちろん、「妊娠したときには家族を形成する」という極めて「結婚」に近い条件を満たした上で、「性の自己決定権」を行使して、セックスをするのは、矛盾にはなりません。
 逆にいえば、「妊娠したときには家族を形成する」という極めて「結婚」に近い条件を満たせば、愛がなくても、動機が、友情でも憐憫でもお礼でも寂寥でも性欲でも、セックスをしてもいいのです。
  
 恋愛至上主義批判の人たちが、イマイチ、このあたりについて口を噤んでいるような気がするのは、おそらく恋愛至上主義批判の人たちこそ、恋愛至上主義に縛られているから、安易なセックスに口うるさいのではないかなと思ったりします。
 きちんと避妊して、それでも極わめて稀に妊娠したときには家族を形成するなら、セックスをしてもいいぢゃんね。
 ということで、可愛くて知的な女性よ、やらないか?

*1:夜ばいとかこのあたりのことを書くと小谷野敦先生から突っ込まれる栄誉が得られる可能性があるのでスルーします。