立派な大人になるために

  
 この世の中に生きている人の中で、自分の事を立派だと思っている人間はどれだけいるのでしょうか?
  
 自分のことを、比較的によく理解しているのは自分自身であるのがほとんどであるため、当然、負の部分を見てしまい、自分のことを立派であるとは全く思わないことが多いでしょう。
 私なんかは、社会的にも人格的にも、最初から問答無用で駄目人間であるために、立派な要素が一つとしてないので簡単なのですが、例えばスポーツ選手などで、イチロー貴乃花清水宏保のように、その道を究めるタイプのアスリートなどは、自らを立派だと思って然るべきだと思うのですが、そういう求道者は逆にどこまでもその道を究めるべく、貪欲で満足したりしなかったりしそうです。
 自分に誠実な人間こそ、自らの内面と向き合い、自分を立派だとは思わないという気がします。
 逆に言えば、自分を立派だと思っている人間は、不誠実であり、立派だとは言い難いということが、かなりの確率で言えるでしょう。
  
 普通のサラリーマンや、まぁ、いわゆる普通の人で、自分のことが大嫌いだという人がいます。
 で、自分の内面のこんなところが嫌だとか、そういう話を聞くと、自らを省みて、不思議な気分になります。
 私は、自分のことが好きでもあり、また嫌いでもあり、総合して「そういうもんだ」という認識をしていることに気が付きます。
「嫌いな部分」というものに対して、もう諦めちゃってるんですね。
 早い話が向上心がないわけで、駄目人間です。極めて。
 しかし、自分のことが嫌いだという人達は、それを嫌いだと思うことにより、自分の良い部分以上に、嫌いな部分を嫌悪し、向上したいという欲求を持ち、またそれが適えられない弱さに自己嫌悪を持つ。
 非常に向上心に富んだ、立派な人達だと思います。
 が、しかし。
 私は、自分のことが嫌いだという人の話を聞くたびに、「そうか、自分のことが大好きなんだね」という感想を言わずにはいられないのです。
「自分はこうでありたい」という、そういう自分の理想像を持つほどに、その理想像に相応しい自分でなければならないと考えるほどに、自分のことを愛している。
「自分のことを大嫌いだ」ということは、自己愛の大きさの裏返しであるわけです。
 して、翻って自分を考えると、俺なんて「そういうもんだ」と、納得してしまっているわけです。立派になれるわけがありません。
 自分のことが好きとか嫌いとか考える前に、諦めちゃってるんです。
  
 自分が大嫌いで「向上心に富んだ」人達の中には、本当の自分を探しに行くんだ、とか言って「自分探しの旅」に出てしまう人がいます。
 自己愛が凄すぎちゃって、日々の生活の中で獲得できる限界を超えちゃって、特殊状況下で半ば他力本願的に獲得できる何かを望んでいるのでしょうね。
 自己愛は向上心を生み出しますが、それが度を超えると、気持ち悪くなってきて、到底、立派な人から離れていってしまいます。
  
 自他共に認める「立派な人」というのは、なかなか一筋縄ではいきません。