アナタに相応しい私になるために

  
 昨日のテクストの続きでもあるわけです。

 槇原敬之の『君は僕の宝物』という歌があります。
♪みんないつか大事な人に
「愛してる」とテレずに胸をはって
言えるその日が来るように
頑張ってる気がするんだ♪

 小沢健二の『痛快ウキウキ通り』という歌があります。
♪それでいつか君と僕とは出会うから
唾を吐き誓いたい それに見合う僕でありたい♪

  
 私は、自分が頑張らない人間であるために、成長やステータスとは無関係な人間であるために、このようなポジティヴさとも無縁でいるわけです。
 歌謡曲というのは、商品である以上は、ポジティヴであることも売れる要素になるわけだし、成長の物語というのもドラえもんの映画版のように売り物になるわけです。
 しかし、私のような駄目な人間にとって、上のような歌詞を聴いていると、急に我が身に返って恥ずかしくなるわけです。
  
 そのうえで、ちょっと居直ってみたいと思います。
 私のような童貞にとって、自分の好きな女性というのは、至高の存在になります。
「恋愛」というもの、それは相手の存在だけではなくて、その相手を愛しているんだという自分の感情も含めて、それに対して余裕で人生を投げかねないような対価を払っても差し支えない、という激しいものになったりするわけです。
 相手の存在に加えて、自分の愛情や誠実という、いわば自己愛までもが付加されるわけですから、「恋愛」の価値がインフレを起こすわけです。
 それを「恋愛」として、対象の女性に浴びせかけるわけですから、その「価値」というのは、余裕で債務超過になるわけです。青天井。無限ですから。
 あの人には、完全な幸せをあげたい。
 さすが、童貞のなせる業です。
  
 で、上の歌詞になるわけですが、最初から無理なんですよ。
 相手は無限の、青天井の価値が付いているんですから。
 大事な人に、胸を張って、なんて、そんな、言えませんよ。どんだけ頑張れば言えるんですか、それは。
 至上の価値のある相手に見合う人間になんて、欲張りすぎでしょう。
 まぁ、例えばそれなりの功績をあげて実績をつみ、かなりの金なんかを貯め込んでいたならば、それは多少の自信になるでしょうが、「さぁ、俺はこんだけのものがあるんだ、お前に相応しいだろう、どうだ?」と言えるには、どこまで頑張れば充分な自信になるのだろう?

「恋愛」というのは、相手に代替不可能なオンリーワンでナンバーワンな価値を浴びせる物語です。
 もちろん「まぁこのあたりでいいか」という妥協もありますが、それは童貞がする恋愛ではありません。童貞の恋愛はインフレになりがちです。
 それが故に、わけのわからないことを考えたりします。
「あの人には(無限の)幸せになってもらいたい。それには自分は相応しくないんじゃないか?」
 そうです。実際に相応しくありませんし、幸せにもなってもらいたいのです。
 ならば、自分と一緒にいて欲しいと思わないのかというと、決してそうではありません。
 好きで好きで好きすぎて、相手を不幸にしてでも、どうしても一緒になりたいときに「私と一緒に不幸になってもらえませんか?」とお願いするのです。
 了承する人間など、まずいないでしょうね。