刑罰は被害者のためでも加害者のためでもない別の都合によるもの

  
 昨日からのと、多少は関わっています。。
 人間が有する『普遍的人権』というのが一つだけありまして、それは「内心の自由」というものです。心の中だけは何を思っていても、他者に侵害されることはない、なんびとたりとも侵すことの出来ない「自由」です。
 もちろんこれは、母語獲得から始まるあらゆる「洗脳」に曝されるという意味においては、厳密には完全に「自由」であることは不可能なわけですが、それは、母語獲得以前の、他者に全く影響されない「自我」が存在するのか? という別の問題が発生しますから、それは別問題で別次元であると認識ください。
 で、その唯一にして絶対である「普遍的人権」である「内心の自由」に付随して「反乱権」というものが付いてきます。これは、なんらかの共同体に属していることが前提となりますが、その共同体に対して、その転覆を狙うことを目的とする行動をする権利です。まぁ権利といっても、失敗してしまえばえらい目に遭います。たいていは殺されます。また、民主主義下では有り得ないとか有ってはならないかのように喧伝されていますが、それはデマです。現政府を転覆させるのは選挙で可能かもしれませんが、民主主義自体を転覆させるならば、それは選挙である必要がないからです。
 で、少し話がずれましたが、それらに次いで、かなり自然権的に有するとされているのが「復讐権」です。
  
 何故「復讐権」が「かなり自然権的」であるかと言いますと、「およそ生物にはその種族的存在を害する攻撃に対する反撃をなすの性質がある」(by穂積さん)ということで、被害感情を慰藉することを含め、人間に限らずほぼ全ての動物に見られる行動とされているからです。
 で、その「復讐権」というのは、過剰報復に陥りやすいためもあり、届出による許可制になったり、制限されたり、そして禁止されたり、となったわけです。
 現在の近代国家における近代法では、当然ながら復讐は「私刑」として禁止されていて、その目的と理由は何かというと「国家による合法的暴力の独占」になります。独占する代わりに、国家が代理執行するという建前になっています。
 国家が代理執行する、つまりは「刑罰」になるわけですが、これは何故やるのかというと、被害者の被害感情の慰撫のためではなく、こちらは国家安定のためです。国家社会の秩序を安定させるために行われるのです。そのために税金を使って。加害者が刑務所で生活する費用を、被害者が払う税金で賄う理由はここにあります。
 言うまでもありませんが、刑罰は犯罪者を「更正させるため」ではありません。近代刑法はそんなことを目的にしていないからです。「ムショから出たらすぐに次の犯罪をやりまっせ」と宣言していても、刑期が終わり次第、そいつは出所させられます。放たれるわけです。きっとまたやるから延長する、ということは許されていません。それが近代刑法です。更正しようがしまいが原則関係ないのです。
 一見すると「社会秩序の維持」と矛盾するように感じられますが、国家という巨大な権力を独占するリバイアサンを縛るための憲法による、国家の保障する「人権」のため、常習的犯罪者や暴力団員も、刑期が終わり次第、野放しにされるわけです。
  
 ということで、国家は人間から自然権に近い「復讐権」を剥奪して、代理執行をするのですが、それは目的が報復ではなく社会秩序安定であるため、また「人権」は国家から加害者を守るため、たいていの場合は被害者の応報感情を満足させるものではありません。ただでさえ、復讐は過剰報復になりがちなのですから「目には目を」以下の報復で満足するはずがないのです。
 しかも、日本の判例においては、例えば殺人について、三人以上殺せば死刑になる可能性が有りますが、一人殺したという程度では、まず死刑になることはありません。考えようによっては殺し得です。正常な人間であれば殺し得だから殺そうと思うものではありませんが、そうでもない人間もいるわけです。だからそういう犯罪も起きる。
 だから、今の風潮としては、厳罰化したほうが良いのではないか、という意見が大勢を占めるようになってきました。その一方で、世界的に見ると、死刑制度自体が先進国ではなくなってきています。ということで、死刑反対論者は「死刑制度存続は遅れている」というわけです。もっとも、この「遅れている」という批判は、果たして批判に成り得るのかが疑問で、ならば「一周まわってこちらが先頭だ」ということも可能です。
  
 死刑制度についてはまた別問題になるのでとりあえず話を戻します。戻しついでに馬鹿馬鹿しい話になりますが、以前に『金田一少年の事件簿』を見ていたら、十数年前の事件の被害者遺族が復讐をするため、気の遠くなるような準備をして、強靭な精神を持ってそれを実行し、かくして十数年の大怨を順々に果たす話がありました。そして金田一少年が復讐劇を暴いて、復讐犯が最後の恨みある一人を殺そうとしたときに止めに入るのです。そして金田一が言います。
 「復讐なんかしたって死んだ○○さんは帰ってこないんだ」
 そんで、その言葉に復讐犯がパウロの回心を起こしてしまうわけです。阿呆か。阿呆過ぎる。
 一体全体、この復讐犯の、復讐を心に決めて準備をしていた十数年の期間、それはなんだったんだ? こんなくだらない何の深みのない高校生の戯言如きに、十数年が相殺されてしまうのかよ。酷い脚本だ。とても驚いてしまいました。
 何が馬鹿馬鹿しいといって、そもそも復讐を願う人間で、殺された人を生き返らせるために復讐を目的にした人は一人もいない。誰だって復讐で生き返るなどと思ってやっていないのだから、生き返らないからといって、何の不都合もない。
 そもそも、復讐というのは、復讐それ自体が目的になるものであって、復讐を達成すれば殺された人間が生き返ると思っている人がいるとすれば、それは刑法三十九条の適用を考えるべきで、上手くいけば無罪になって好都合ですね。
  
 また田嶋陽子などがよく「加害者が死んでも被害者は癒されない」というわけですが、そりゃ当たり前で、先にやられた方、つまりはいきなりやられた方はやり返される方よりも被害者感情は大きいに決まっているわけです。だからこそ倍返しや三倍返しの過剰報復が行われがちになるわけです。逆に言えば、例えば三倍返しをすれば癒されるとすれば、被害者感情を癒すためにも、三倍返しを主張するべきではないかとも言えるわけです。
 完全には癒されないからといって、故にその一助となることをやらないというのも変な話です。
  
 して、私自身が復讐権に完全に賛同し、近代法に反対しているかというと、必ずしもそうではありません。
 いまさら近代法を破棄出来ないというのも大きい理由ではありますが、それ以上に、復讐してくれる身内のいない者への配慮です。天涯孤独である人間を始め、代わって復讐をやってくれるほどの親しい人がいない人間を殺した場合には、復讐(刑罰)を受けなくて良いのか? ということになってしまいます。
 近代法が、復讐してくれる人のない者の代理執行を汲み取ってくれるのであれば、その効果は大いに認めるものです。
 ただ、国家組織に、その刑を執行する人間というのが必要になります。それが死刑である場合、その執行とは人殺しです。
 直接に恨みのない人間を殺意となる動機もなく殺さなければならないという心的負担は相当なものであると想像すると、暗澹たる気持ちになります。復讐したいと考える遺族が、代行してもらうことなく、自ら執行するという選択肢もあっていいと思います。
 また、殺された「被害者本人」の復讐権の代理執行という、その意味において、消極的な復讐権の賛成者です。
 つまり逆に言えば、国家は復讐権の代理執行をしなければならない、という、酌むべき事情がない限り、人を殺したら死刑を基本にする原則が必要であると考えます。それを国家に保障させる権利を「復讐権」と認めるという考え方です。
 今の日本国家は、復讐権の代理執行をサボり過ぎということですね。
  
  
 山口県光市の母子強姦殺人事件についてなど、もう少し続きます。