復讐として殺害する際の注意点

  
 先日の翔太さんのウェブログを見て、野島伸司の『人間・失格』を思い出しました。思い出したといっても、主人公が赤井英和で、息子にキンキキッズ堂本剛で、その不思議な友達に同じくキンキキッズ堂本光一が出ていたということと、印象に残ったのが教師役の斉藤洋介嶋田久作の生まれ変わりかと思ったことと、堂本剛が掃除道具入れで失禁しているシーンぐらいですが。あと横山めぐみか。
 昨日の書いたもので、誤解を受けないようにしておきますと、いじめというものに対して、全てが「殺す」という復讐や反撃が不適当であるといっているわけではありません。
 栃木リンチ殺人事件などのように、まぁ、この場合は殺人までいたったのですが、殺人の手前であったとしても、加害少年には殺害以外に相応しい応報はないと思われるわけで、まぁ、この栃木リンチ殺人事件は、極端に酷い例ではあるけれども、いじめに対する復讐や反撃で「殺害」に至るというケースはあって然るべきだと思います。
 ただやはり、いじめられた側の恨みという、受け取り側ベースで考えてしまうと、例えば最近話題になったサレジオ事件なんかは、その売れている本によると、全くもって大したいじめではなかったようです。まぁ「ブタ」と呼ぶことが大したことであるのかないのか、という問題はありますが、まぁ命がいくつあっても足りませんわ。それを「よく殺したな」と褒めていいものかどうか。
 そもそも、復讐という行為は過剰報復になりやすいわけです。それを抑制するためにハンムラビ法典で定められたといわれるぐらいです。
 今回のケースで言えば、ズボンを下ろしてといういじめがあったわけですが、教師に関しては、きっかけとはいえ、殺害されるに足る「いじめ」たという行為はなかったのではないかと思うわけです。
 この教師は糞で、しかも頭が悪く、挙句の果てには入院で逃げるという如何ともし難いカス教師であるとは思うわけですが、だからといって殺されてしまうというのでは、対価としてはデカ過ぎて復讐の連鎖に容易に発展することは想像されるわけです。
 復讐権という存在を認めるとしても、その行使をするとしては弱すぎるのではないか、ということです。
 これを「ただ私は私の復讐権を行使する」と言ってしまうのは、ほとんど、私は犯罪を侵す権利があるので、その犯罪権を行使する、というのに等しいのではないか?
 復讐権という存在を認めるのであれば、その行使に際しては、その復讐内容が、かかる行為に対して適当であるのかどうかは、充分に慎重に量られるべきであると思うわけです。
 少なくとも、この低レベルな教師に関しては、どうしようもないクズ教師ではあるが、殺されるほどのことはしていないと思うのです。
  
  
  復讐権云々については、もう少し引きずります。