動物好きであらざれば人に非ず

  
 古い記事で恐縮なんですが、「きっこの日記」執筆者からの返答という記事を読んでいまして、気になったことを一つ。
  
 きっこの日記のきっこが、飼い猫でいたずらをしていた記事を削除して云々という話で、私はきっこの日記も読んでいないし、きっこの人となりも良く知らないので、記事の内容自体については別段特に面白くありませんでした。
 ただきっこの以下の発言が非常に面白い。
 「動物愛護の精神に反してしまうのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。」という質問に対してですが、あたしが書いた行為自体は、自分の可愛がっている猫に対して、確固たる信頼関係を結んだ上で、「痛くないこと」「本当に嫌がる猫にはやらないこと」「あくまでも猫とのスキンシップの一環として」などを踏まえた上でやっていたことなので、動物愛護の精神に反するとは思っていません。
 なんか不思議に思いませんか?
  
 「確固たる信頼関係を結んだ」って、きっこと誰が結んだんだ? 猫か? 猫がそれを承認したとどうやってわかるんだ? 猫は禁治産とかではなく理性的な判断能力は有していたのか? 猫はちゃんと輪ゴムやセロハンテープのプレイに同意していたのか? 猫が「痛くしないで好きにして」なんて有難い意思表示をしたのか?

 「動物愛護」とかで、犬が崖でとか、猫が木の上でとか、鳩が電線に絡まってとか、動けなくなっているのを馬鹿馬鹿しいぐらいに大袈裟に救出しています。
 「動物の愛護及び管理に関する法律」というのがあり、例えば庭に入ってきて草木を荒らす猫を殺すと警察に逮捕されたりします。
 よく言われることですが、これがネズミであれば逮捕されるのかどうか? 牛なんかは殺して食べているのに問題はないのか? 佐川一政は、、、と、極めて恣意的で不可思議な法律です。そんな恣意的なものが、正義のようにされちゃってます。
  
 これには、人間の「ペットを飼う」という他の動物にはない特殊な性質が関係しています。
 何故に人間がペットを飼うかというと、ペットを日本語では「愛玩動物」と呼ぶように、愛して玩びたいからです。もてあそぶ、ね。「私をもてあそんだのね」の、もてあそびですよ。玩具(おもちゃ)の「もちゃ」は、もてあそびからできています。愛してもてあそぶ、それがペットです。
 「愛」といえば良いイメージですが、仏教によるまでもなく、恋愛に悩んだことのある人間には自明として、「愛」とは業です。カルマね。呉智英も言うように、ペットとはそのカルマである「愛情の捌け口」として人間が利用している存在です。人間の勝手ですね。
 愛しのid:lovecallさんは、私はネコが好きではありませんにて、以下のように書かれています。

 むかし友達に
 「猫とか犬とか全然可愛いと思えないんだけど。あんなの見てなんで喜んでるの?」
 って言ったら、
 「動物を愛せないなんて可哀想な人だね、きっと誰かに愛された経験も誰かを愛した経験もないんだね。哀れな子」
 って言われて、それがものすごくショックだったんだよね。

 俺が愛してるっちゅーの。
 まぁ、それはいいとして、人間が、勝手に自分の愛情を浴びせたいが故に飼っているはずの『ペット』に対して、それを愛せないからと「哀れな子」と認定されてしまう。本末転倒です。ここにはただ「ペットを好きであらざれば人に非ず」という平清盛があるだけです。
 ペットを飼っている人は、自分がペットに愛情をかけたいと思ったとき、ペットに拒絶された場合には、信頼関係を重視して必ず諦めるものなんですかね? 餌を与えて援助交際しようとしたり、あるいは力尽くで抱き寄せる強制猥褻をしてるんじゃないですか?
 物品で歓心を買おうとしたり、暴力的に身体を拘束して浴びせる愛情に、「誰かに愛された経験も誰かを愛した経験も」果たして関係あるのでしょうか? ペットへの愛情なんて、常に一方的で自慰的なものです。なにしろ自慰に使うのがオナペットですからね。
  
 今度は源氏の紫の上ですが、例えば私が日本海側に引っ越して一人暮らしを始めたとします。
 近所を歩いていた川島梓ちゃんを部屋に誘い込み、それ以降、梓ちゃんを逃げられないようにした上で、食事を与えたり、身体を洗ったり、排泄物を処理したり、首輪をつけて散歩をしたり、身の回りの世話をしながら可愛がったとします。
 暴れたり歯向かったり勝手に逃げ出そうとしたら、叱ったり躾けたりしてちゃんと調教します。でも同時に愛情はたっぷり注いで可愛がります。おかげで梓ちゃんは懐いてきました。私が家に帰ると、尻尾を振ってお出迎えしてくれます。
 ある日、なんか妙にもう梓ちゃんにムラムラしてきて、スキンシップを図りたいと思ったのに、梓ちゃんは拒絶します。私は居てもたってもいられず、梓ちゃんに力尽くで襲い掛かります。グッドスメルです。私は梓ちゃんに愛情を注いでいますし、梓ちゃんも私に懐いているんだから信頼関係の上での行為です。
 私は暇だったので梓ちゃんにイタズラをしようと思いつきました。口にギャグボールを噛ませ、鼻フックをしました。痛くはしてないし、梓ちゃんが本当に嫌がったら止めるつもりでした。あくまで自分の可愛がってる梓ちゃんとのスキンシップの一環として、確固たる信頼関係を結んだ上での行為です。
 私がこれだけ梓ちゃんを可愛がってるし、梓ちゃんだって懐いてるんだから、梓ちゃんだって私のことを愛しているんです。愛し合ってるんです。だから私はなにをしたっていいんです。
  
 キモいですね。そのキモいことをペット好きの人間はやっているということです。きっこの言ってることはそういうことです。
 しかし、動物とは本来、野生が基本の状態であって、飼われている状態が既に「動物愛護」に反しているという事実は、ペット好きの人間は認識するべきでしょう。
 仏教によるまでもなく、無益な殺生は忌むべきでしょう。しかし、動物愛護は正義でもなんでもなく、愛情というカルマでありエゴであり原罪なんですわ。
 ペットが懐いていると、ペットも喜んでいるように感じますが、動物は自然状態が基本です。梓ちゃんだって懐いているんだからいいじゃんかよ。可愛がってるし優しくしてるよ。って、生殺与奪権を握っておいて、ペットは愛されるしか生きる術がないではないか。全てのペットはストックホルム症候群だ。
 ペットを可愛がることなど、優しさではなく、自らの楽しみに過ぎないわけです。
  
 なお、川島梓ちゃんは犬の名前ですよ。