ululunさんのいう「自己責任」

  
 「魔法少女はてなちゃん」というのを一昨日、初めて知りました。
 その「はてなちゃん」で揉め事が起きているそうで、こんな感じらしいです。
 なお「はてなちゃん」についてはこんな感じで誕生したらしいです。
  
 何しろ私は一昨日、初めて知ったわけですし、だから「はてなちゃん」に思い入れなど何にもありませんから、絵を描いた方にも批判を書いた方にも「はてなちゃん」に関する批判も不満もありません。
 ululunさんが原作者の一人であるということで、その人が「はてなちゃん」の使われ方に「不快」だというと、特別な意味合いが生まれて「はてなちゃん」は誰のものか、という話題にも繋がります。が、私は関心ありません。
 私が気になるのは批評家と作家の関係の問題のほうです。付随して、はてなブックマークのネガティヴコメントの問題も気になります。が、今回は触れません。
  
 id:ululunさんが書いたはセリの「はてなちゃんパンチラ画像」削除についてという文章があげられておりまして、そこで気になる部分がありました。
 私にとってあのイラストは生理的嫌悪感以外の何物でもなかったが、あなたが画像を削除した事と引き替えに「ululunさえ黙っていれば・・・」というの眼差しが私に向けられているわけです。
 私が抱いた不快感が翻って私に冷たい眼差しとなって、あなたの悲しみとなって私に降り注いでいる。
 そういう構造を常に孕んでいるのだから、表現というのは常にどんな場合に於いても自己責任であるのだ、と痛感しましたし、km37さんにも自己責任のもとに掲載するなり削除するなりなさっていただきたいと思うのです。
 
  
 私は、はてなのコミュニティに疎いので、このululunさんが「好むと好まざるとに関わらずid:ululunというハンドルネームの持つ力は大きい」というほど、大物なのかどうか知りませんが、というより、こんなコミュニティで大物だと何が凄いのかすら私には理解不能なのですが、その大物に僭越ながら。
 私は、ここで出てくる「自己責任」という言葉がどうにも引っかかるわけです。売春女子高生の勘違いを聞いているみたいで。
 援助交際真っ盛りの頃に売春少女から出た「自己責任」という言葉。「自己決定権」に付随して出てきましたね。
 「私は誰にも迷惑をかけてないし、相手も喜んでいるんだから問題ない。もし、親や彼氏にバレたりしても、それで嫌われたりするリスクは自己責任としてちゃんと受けるし」
 ここには、成した行為に対して批難を浴びれば、あるいは嫌われれば、それで「自己責任」は果たされたという意識と言うか、メンタリティが現れてます。
 それはどうなの?
  
 何かをした結果として嫌われると言うのは、どう考えても責任を果たすこととは関係がない。
 責任を果たすとは、その被害を修復するか、もしくはそれに準ずる代替を充分にリカバリー出来た時に、言える言葉です。
 他人の百万円を失した場合、所有者に「何やってんだ莫迦!」と怒鳴られたからと言って、それは自己責任は果たしていません。百万円を別に用意して返すか、それに準ずる賠償や労働をして、ようやく自己責任を果たしたと言えるわけです。
 「嫌われる」とか「批難される」というのは、ただ避けられない、被る害に過ぎないわけですよ。避けられないだけなのに、それを「自己責任」という風潮があるようです。
 「親や彼氏に嫌われる」や「冷たい視線を浴びる」というのが、どれだけ本人に辛いことであっても、それは主観の内部の問題であって、外部には無関係な事柄です。それが責任を果たすことになるわけがありませんわな。普通に考えれば。
 そんなんで「自己責任」を果たしたつもりになるのは、虫のいい話じゃね?
  
 自分が嫌な状態にある、ということに、それぞれが物凄く大きな価値をおくようになった、ということなんでしょうね。この風潮は。
 俺がこんなに嫌な思いしてるんだから、それで許してくれて当然でしょう、というね。
  
 なお、ululunさんの「自己責任」という言葉に、気になったから書いたまでで、今回の騒動で、ululunさんが悪くて、ululunさんを正義の味方気取りで叩いている人間が正しい、という話ではないですからね。
 今回はパンツだったからなんだけど、もし首がもげてはらわたが出ちゃってる「はてなちゃん」だったらどうなのか、とかね。小学生?のエロとグロの反社会性と喜ぶ人の人数だけで空気を形成してよいのか、という問題ね。「はてなちゃん」自体には関心ないからどうでもいいんだけど。