売春婦の「誇り」と「覚悟」

  
 D.プロの「誇り」と「覚悟」についてです。続きです。
  
 管理売春を肯定し、自由売春を否定する人は、どうして売春婦に「誇り」と「覚悟」を求めるのか?
 自由売春を批判するときに言われる「誇り」と「覚悟」とは、なにを意味するのか、というと、これは明らかに差別の隠蔽です。
 この「プロ」の売春婦になる「覚悟」とは、差別という苦界に沈められる「覚悟」に他ならない。その差別性を甘く糊塗するために持ち出されているのが「誇り」という言葉です。
 「援助交際をする人間には差別や蔑視をするけれども、プロとして仕事をする風俗嬢には差別をしない」という人間は、自分が売春婦を差別してないというならば、自分の妻や娘が、プロの売春婦になると言うのに対し、一般企業に勤めるのと同様に「就職おめでとう!」と素直に何のわだかまりもなく言えて、初めて売春婦に対して「差別や蔑視がない」と言えるわけで、本当に言えるのか?
 もし、アマの売春婦には差別心を持つが、プロの売春婦には蔑視しないというのが本当なら、もし、自分の妻や娘が素人売春をしていた場合「売春なんかするな!」ではなく、「プロになれ!」と言わなくてはおかしいわけで、はたして本当に言うのだろうか?
 私は、家族なり大切な人が売春婦になるならば、出来る限りの尽力をして阻止をしようとするだろう。それだけの差別心は持っている。
 その「差別を受ける覚悟」を、「売春婦の誇りと覚悟」などと評して、綺麗事にしようとしているわけです。
 この「覚悟」なるものが、差別に関する「覚悟」以外の「覚悟」であるというのなら、何の「覚悟」か説明していただきたい。性病になる覚悟か? 妊娠の覚悟か? 契約外の性暴力を受ける覚悟か? こんなものは覚悟をするのではなく、性病感染や妊娠、暴行を受けないシステムの構築を考えるべきであり、受ける「覚悟」をするべき問題ではない。
  
 何故に、管理売春には「誇り」と「覚悟」を認めて、自由売春には「誇り」と「覚悟」を認めないかと言うと、自らの火の粉が降りかからないためという差別です。
 つまり、自分は風俗嬢を性欲のはけ口にすることはあっても、一人の女性として交際相手の対象にするつもりはないのに、交際相手の対象となりうる女子高生やOLが援助交際することは、まかり間違ったら売春婦を恋人や妻にすることになるかもしれないから反対しているだけです。
 売春婦は売春婦の名札をつけておいてくれないと、間違えて妻や恋人にしてしまうかもしれない、と。
 さらに言えば、自分とは別の世界に切り分けておいて欲しいのです。自由売春で「一般人」と「売春婦」の垣根が不鮮明になることに忌避しているわけです。
 誇りとはいうものの、実質は金で不特定多数の男に抱かれる身分に身をやつすことへの「覚悟」を強いることで、自分の身は身奇麗にしたい一線を引くという差別心に過ぎません。妻や娘だって売春婦になるかもしれないのに。
 売春婦差別はしない、彼女らは誇りと覚悟がある、などと言ってみても、自分の妻や娘が金銭を介して不特定多数と性行為を行う「覚悟」を容易に持てない限り、なおタチの悪い差別者に過ぎないのです。