恋愛至上主義と売春婦差別

  
 えーっと、私が好きだと言った私の大切な方々をですね雑魚ばっかりじゃんと言ったMarco11さんなんですが、一言いわれたら「自分も雑魚」とか言っていたんですけど、先ほど貰ったトラックバックを読んだら、全然、雑魚なんかじゃないじゃん。騙された。
 いつからプランクトンのことを雑魚と呼ぶようになったんだ。
 というかだな、トラックバックを読んで驚いた。お前はOZAKIか。何を思って書いたんだこれは! これでいいのか?
 いや、まぁ、いいや。私は、自分が好きだからと勝手に無断で選んだ人たちを「雑魚」呼ばわりした君が「プランクトン」であったということさえここで言えれば、これ以上、もういじめるつもりはない。罵倒はここまで。
 私はとりあえず何でもいいから書け。相手はすると書いた以上、一応はわかるように説明する努力はしよう。
  
 う〜ん。とりあえず、前回の最後の部分でヒントを出した恋愛至上主義のところの解説をするね。
 マルちゃんは、OZAKIチックにこう書いている。

なぜなら恋愛感情は性交渉と違って取引できない。お金でセックスは買えるけど、愛情は買えるとは限らない。では愛情は何と取引できるのだろうか?いったい何を支払えば愛情がもたらされるのだろうか?
きっとそれも「愛情」なのだろう。愛情は愛情によってのみ取引可能なのだと思う。自分はそう信じている。

http://marcon.g.hatena.ne.jp/Marco11/20070317/takisawalove

 wow wow wow wow wow wow wow wow 翼を広げ! 
 さて、マルちゃんは、好きな女性がいて、その愛情に「価値」を見出しているわけだ。かなり恋愛至上主義だ。
 で、その「愛情」のある彼女との「セックス」と、マルちゃんが金銭を支払いした売春婦との「セックス」について、その「セックス」に優劣はつかないの?
 私は、愛する彼女との「セックス」の方に、遥かに高い「価値」を置いてしまうわけだよ。つまり差別者であるわけだ。
 マルちゃんは、それを等価であると考えるの? また、愛している彼女にもそう言うの?
  
 つまりね、この親密性パラダイムが支配している時代において、多くの人間が「愛のないセックス」よりも「愛のあるセックス」に価値を重くおいているわけだ。
 「愛のあるセックス」の価値が高く、「愛のないセックス」が劣るとなれば、職業として、劣る「愛のないセックス」をする人は、被差別側に置かれるようになりかねないわけ。ここは可能性ね。
 さらに言えば、この「愛する人とのセックス」という至高だと思われがちな行為に対して、行為自体の内実は全く変わらない「愛のないセックス」でお金を得ることは、その「愛する人とのセックス」という「至高」の価値に値付けをするという意味で、脅かす存在となるわけだ。
 ここで「愛のあるセックスは金に変えられない」というのは、それは「愛のないセックス」をどのみち蔑んでしまうわけだよ。
 これは当事者である売春婦においても、実は「彼氏とのセックス」というものに「お客とのセックス」よりも高く価値を置いている傾向が見られ、実は当事者だって差別に加担しているとも言えるんだ。
 だから「愛情」に価値をおく者というのは必然的に、売春に対する差別を内在化した存在だともいえるわけ。愛は差別を孕んでいるのよ。
 どうだろう? これでわかるかな? わからない言葉があったら、できるだけぐぐって。
  

愛する人を守る。愛する人の幸福を確保する。それが誰かを愛する者の勤めなんだよ。わかるかな言ってること。(略)
自分が法や差別の定義について言及したのは、それをyukiに利用して貰うため。差別とか、議論とか、法解釈とか、そんなの全部俺にとっては道具だったり建前に過ぎないんだよ。俺にとって大切なのは、大好きなあの子の楽しそうなコメントとか素敵なエントリなんだよ。そのための場を確保するために最大限言葉を利用してるだけ。愛の道具として言葉があるんだよ。おまえは言葉のための言葉とか、自分のための言葉を吐き散らかしてるだけ。だからおまえはモテないんだよ。愛するということの意味を知れ。

http://marcon.g.hatena.ne.jp/Marco11/20070317/takisawalove

 あのー…… えーっと…… 無邪気な君は 本当に なんだ だから アレだ
 言いたかったのは、結局のところ「僕はyukiさんが好きなんだああああああああああああ!」ってことですか? そんなことが言いたかったのか、君は。
 そうか。うん。そっか。頑張れよ。いいこっちゃ。
 ただね、思い出して欲しいのは、今回、私が君をいじめるきっかけになったのは、君が私の大切な人を侮辱したとこから始まったわけだ。覚えてるよね。雑魚ってやつ。自分がやったことがわかってるかな?
 で、八倍の知能は、愛の道具としての虚像だったわけか。まぁ、それでもいいだろう。正直、私も多少は大人気なかったと思うし。
 まぁ、なんだ、私は君が私の大切な人を雑魚呼ばわりした侮辱を晴らすことができて、君はyukiさんに告白できて、それでいい、、、、のか? まぁええか。
 しかし、「差別」を「利用」するのは愛のための「道具」や「建前」とまで言い切って、大丈夫なのか? 君は。
 被差別者がどう思うかまでは責任持てんぞ。yukiさんはそれで喜ぶのか? わしゃ知らんぞ。
 で、君は、これ一体どうしたかったんだね?
 最後の「僕はyukiさんが好きなんだああああああああ!」の卓袱台返しでなかったことにしてくれ、ということでいいのか? なんつー迷惑な愛の告白だ。まったく、お前は俺か!
  
 しかし、これは困ったなぁ。どうしたもんだろうか。う〜ん。こんなオチとは……
 まぁ、自らの力量もわからず、喧嘩を売りまくるというのは、あまり褒められたことではないぞ。
 というか、今まで誰も叱ったことがなかったとしたら、それが不幸だったな。
 とりあえず、オーケンの『グミチョコパイン』を読め。騙されたと思って読んでみ。
  
  
>inumashさん
 私はまだ、はてなに慣れていないので、どういう言葉を言われたら、それにどの程度まで返してもいいものかわからないんですね。
 ずっと何年もヴァーリトゥードルールの中でやってきたものだから、観客がどこまで許すかわからない場所ではやりにくいな。
 ということで、なんかここで「愚かな人」呼ばわりされてますが、とりあえず一回目は丁寧な感じで。

これに勝手に回答すると、現段階では「NO」だ。
理由は、その職業特有のリスクを知っているから。自分の意思とは関係なく、上のように未だ職業差別を受けているわけだし、他の職業のように労働条件が完璧に整備されていない段階でそれを選択することはリスクが大きすぎる。
逆に言えば、それが整備されているならば止めることは無いと思う。

http://d.hatena.ne.jp/inumash/20070316/p1

これについては、id:inumashさんが引用している該当記事に既に書いております。

すると今度は、差別心を他人のセイにし始めます。
「私は売春婦を差別するつもりはない。が、売春婦を差別する奴が多く、社会が売春婦を差別するので、その差別による不利益を被らないために、身内の者には、売春婦にならないように言ったり、あるいは売春婦であることを隠したりするのであって、自分は売春婦を差別していない」と。
そんなものは、明らかにその「社会による差別」に加担しているのであって、その社会の差別をより強固にする役割を担っているにもかかわらず、自分だけは身綺麗であろうとする卑劣な振る舞いです。

http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20070317#1174057491

 私が言っているのは、この「身内や大切な人が売春をする」といったときに、どんな理由であれ「ダメ」と言った時点で、差別に加担しているんだ、ということです。
 つまり、inumashさんは、しっかり差別を強固にすることに加担している、ということです。
    
 これ以上わかりやすく説明するのは難しいので、敢えて極端な例を出しますが、たとえば、娘の結婚相手に対して「俺は被差別民でも差別はしない。しかし、社会は差別をするから偏見や不利益が多い。だから俺は反対する」という人がいたとします。
 社会の構成員が全てこの人と同じ考えを持っていた場合、誰もが「俺は差別をしない」としながら、社会的総意として差別の構造は消えることがないのです。そして社会の成員全てが差別に加担しているのです。
 私はその、「俺は差別をしない」と言いながら、自らは差別に加担して強固にし、それで他者だけを「差別者だ」と糾弾するのは、自分だけは身綺麗であろうとする卑劣な振る舞いだと指摘しているわけです。
 まずは自分も差別者であるという自覚を持つべきだ、と言っているわけです。
  
 「差別」という問題は、その被差別である当事者がリアクションをするのは、レジスタンスとして当然のことであり、しかし、それ故にまわりが口を噤むということになれば、それはスティールの『黒い憂鬱』における「被差別者という権力」が成立することになります。「無垢という権力」ね。
 では、当事者ではない、むしろ差別に加担している人間が、他の差別者に対して「お前は差別者だ」という場合、それが非難として言われている以上、同罪である者の為す行為としてどういう意図があるのか。
 私は耶蘇教徒ではありませんが「罪なき者まず石持てこれを打て」とするならば、同じ罪を有している自分が、同罪のものに対して石を投げるとき、その動機は二つ考えられます。
 一つは「罪」に対して石を投げる目的。もう一つは「他者」に向かって石を投げるのを楽しむ目的。
  
 前者は、自分だって「罪」を持っているのです。であるならば、まず石を投げるべきは、自分に対しての「罪」にではないのか?
 自らの罪は省みず、他者の差別心を見つけると馳せ参じ断罪する。これはもはや「石を投げることを楽しんでいる」と見て差し支えないのではないか。
  
 繰り返しになりますし、いちいち断りを入れ続けるのもなんですが、私は、目の前にいる売春婦個人に徒に差別的であって良いという主張をしているのではありません。
 そして、「お前も差別者であるなら口を噤め」と言っているのでもありません。まずは、自分も差別者である認識するところからスタートせよ、と言っているのです。隗より始めよ、で。
 自分の差別性を棚に上げて、他者の差別を石持て打てをしていては、それはただ「他者に石を投げるのを楽しむ行為」に過ぎないということです。
 それはすなわち、他者を攻撃し楽しむことに、被差別者を利用していることにならないかということです。
  
 まずは自分を差別者と認識規定し、それで差別を止めるなり、あるいは差別してしまうことに心痛めたり、そこから話が始まるのではないでしょうか?
  
  
  
 http://b.hatena.ne.jp/yuki_19762/20070317#bookmark-4231596
 id:yuki_19762さん、はじめまして。
 Marco11さんの、yukiさんの楽しそうなコメントとか素敵なエントリを見たい、という思いを聞いてしまった以上、私は、yukiさんとのやりとりはできれば遠慮したいと思います。
 あらかじめ申し上げますと、私とyukiさんがやり取りをするとなると、おそらくどちらも相当な消耗をするでしょう。
 なぜなら、おそらく、yukiさんがこれまで相手にしてきた人と私はタイプが全く異なるからです。私は気を遣うわけですが。
 「差別とは何か?」という根源的な部分から始めることになると思います。おそらく、今までに経験したことがない消耗になると思います。
 先のブックマークコメントの「差別を正当化」について、私がどこで「差別を正当化」をしているのか、具体的箇所の指摘はいただきたいと思いましたが、それをはじめてしまえば、話は進んで行ってしまうでしょう。それは私の本意ではありません。
 しかし、yukiさんが望むのを拒むつもりもありません。きちんと対応します。ただ本気でやるならば、きっと何冊も本を読む必要が出てくると思います。かなり消耗はするでしょう。
 私は流れ上、Marco11さんとの義理も出来てしまった以上、yukiさんとのやりとりはできれば遠慮したいと思います。ご了承いただければと思います。