子供を育てるのは誰なのか?

  
 先日の夢がないねと関連。
  
 従兄弟の子供が、病気か何かで顔が崩れてしまった人を見て、その人を指差し「うわ、スケキヨだ!」と言ったことに、私がその場で怒り、後で親に報告したところ、子供を怒ったことに、私がその親から怒られた、という話である。
 不逞のガキを叱ると、その親が叱った大人に対して文句を付けてくるということは、以前から指摘されている。
  
 他人から干渉されるということは非常に鬱陶しいことであり、実は干渉することも鬱陶しい。
 鬱陶しいにもかかわらず他者に干渉するのは、鬱陶しいのを乗り越える好意を持っているか、あるいは、干渉する鬱陶しさ以上の鬱陶しさを感じているか、このどちらかだ。
 それは、干渉される親側から見れば、「思いやられている」あるいは「迷惑をかけている」ということになる。もっとも、注意する側が正しい前提だが。
 しかし、思いやりは価値観の相違で「大きなお世話」に成り得るし、迷惑を指摘することは逆ギレを生んだりする。
 子供が叱られるというのは、自分の監督責任を感じるからか、もしくは子供を自分の所有物として自分と同一化しているからか、自分は思う存分に叱りながらも、他人に叱られると腹が立つようである。
  
 なんか、懐古趣味の人間の「昔は良かった」昔話において言われるように、子供というのは、親の子供ではなくて地域の子供であり、その理由として、フリーセックス(夜這い?)で誰が本当の親かわからないから、などという俄かには信じがたいような説明もされたりするのだが、近所の大人が「世間様」を背負って説教したりして育てていた、とされる。
 田舎のことは知らないが、今は近所であればこそ、干渉を避けるほうが賢明であり、子供は、親が威張りながら、学校が育てている。近所(世間様)はノータッチだ。
  
 では、昔のようにご近所地域が子供を育てるようになったりすればいいのかというと、ただでさえ子供を育てる負担に増して、他者から干渉される負担が加わり、なおさら少子化問題に拍車がかかりそうである。
 少子化問題に対して、子供を増やすことで解決の道を探るとするならば、子育ての負担を減らす方向性が必要だろう。
 「産めよ増やせよ」という厚生労働大臣のお仕着せの発言だけで、子育ての負担がそのままであるならば、問題が解決に向かうはずがないのは間違いがない。
  
 子育てというのは、手間もかかれば金もかかる。
 もちろん、それに余りある喜びも記憶もきづなも手に入るわけだけれども、金はかかる。手間はともかく、金がかかる。
 もちろん補助だの控除だのはあるわけだけれども、生まないことに比べれば、圧倒的に金銭的な負担は発生する。
  
 国家を共同体としてみるならば、そして、子供を共同体全体の子供として育てるのが望ましいというのであれば、未成年者の扶養家族控除を大幅に増やして、独身者及び子供のいない夫婦の税率を大幅に増やすというのも、一つの手段だろう。
 子供が欲しくてもなかなか出来ない夫婦の税率も高くなるわけだけれども、それは里親になればよいのであって、どうしても自分の血の繋がった子供しかいらないというのであれば、それは仕方あるまい。