拝む物に意味があるのではない

  
 日本近代の父であり、私がその肖像のついた日本銀行券をこよなく愛する福澤先生という教育者であり日本一の剣客でもあるベストセラー作家がいました。
 随分と前のことなのですが、福澤諭吉の伝記を読んだとき、といっても当然ながら私はその本を読んでいないわけだけれども、なんか非常に違和感を覚えたことがありました。
 それは脱亜論ではなく、諭吉さんが子供の頃の逸話として書かれていたものです。
 ゆきっつぁんは、大人たちが手を合わせている祠に興味を持ちます。大人たちが手を合わせて拝んでいる祠は、どんなに凄い物なのだろう? と。
 ゆきっつぁんはこっそり、大人に隠れて祠の中を暴きます。祠の中には、ただの石が御神体として祀られているのを見つけます。
 ゆきっつぁんは御神体の石を取り出し、そこいらへんに転がっている別の石を入れました。
 それでも大人たちは祠に向かって拝んでいる愚かさを、ゆきっつぁんは面白がりました、というお話です。
  
 この逸話から、私たちは何を学ぶことが出来るのか?
 日本近代の祖といわれる福澤諭吉先生でさえ、子供の時代は莫迦だったのに学問をすることで賢くなった、という『学問のススメ』であろうか?
 日本近代の祖となる当時日本最高峰の知性を持つ福澤諭吉大先生でさえ、百年後の価値観から見れば、愚かさが際立ってしまう、ということだろうか?
 それとも逆に、百年以上も経ようとも、こんな愚かな逸話を有難がったりする大人がいることを、祠の中から面白がればいいのだろうか?
  
 宗教学者島田裕巳はその著作で、といっても当然ながら私はその本を読んでいないわけだけれども、何故に北陸の温泉郷などに作られている巨大仏像に有り難味がないのだろうか? と書いている。
 これは、温泉に来る年寄りから金を巻き上げるための目的で作られていて、風景は壊すし碌なもんじゃないという批判があります。
 ならば、東大寺の大仏や、あるいは最近金属窃盗団に狙われているという高徳寺の鎌倉大仏*1には、有り難味があるのか? という話です。
 これは「仏像」の有難さをどこに求めるのか? という話で、純金と白金で出来ているから価値が高いとか、芸術品として目利きが高値をつけたからとか、作るのにいくらかかったからとか、どう有り難味を決めるのか?
 ご利益の大きさで決めましょうかね。
  
 ゆきっつぁんは、ただの石ではなくて、木や金属の仏像ならば、拝むことを愚かだとは思わずに、面白がりもしなかったのでしょうかね?
  
 奈良の東大寺の大仏は、各国の国分寺国分尼寺の建設とともに、国家財政を揺るがしかねない大事業でした。
 これを公共事業による経済活性化と言えなくもないでしょうが、ほぼ完全に信仰心による、藁にも縋る勢いで建てられたものです。
 天災や疫病や内乱が続く悲惨な時期に、なんでこんな大きな仏像を造ったかということですが、社会不安から救ってもらいたいという本気の思いです。
  
 救ってもらいたいのはいいんですよ。問題は、なんでこんな「大きな」仏像なのか。
 大きければご利益も大きいのか? そういうものなのか?
 これについては、みうらじゅんが次のように『見仏記』で言っています。といっても当然ながら私はその本を読んでいないわけだけれども。
 「多数と巨大」
 「多数」とは京都の三十三間堂のことで、千一体の千手観音像が並んでいる。これは端的に見るものを圧倒します。みうらじゅん
「ここってさぁ『あれって変だよね』じゃすまされないものあるでしょう。だから、すごいよ」
 と表現しています。
 とにかく、圧倒されるまでの数になると、それはもうそのままパワーとなるのです。有無を言わせない説得力を有します。
 これは「巨大」でも同じです。とにかく圧倒させる。
 「多数と巨大」は、言葉ではなく、存在として圧倒するパワーを持っているのです。
  
 しかし、多数を言うなら、大量生産のペットボトルを並べてみたら有難いのかとか、東京都庁は有難いのかというと、そういうわけではないわけです。
 三十三間堂東大寺には何があって、ペットボトルや東京都庁や北陸の観光大仏には何がないのか?
 ここのところを、福澤諭吉大先生は後世に問うている、のか?

*1:近頃爆破されたと聞きましたが