あなたを愛するとは何を愛するのか?

  
 私もご多分に漏れず攻殻機動隊を好んでおりまして、専らDVD映像のみで楽しんでいるわけですが、世界中のあらゆるジャンルのストーリー物の中でも、十数年前から頭一つどころか身体一つ抜けて最先端を突っ走っているような、とにかく格好良くて面白くて素晴らしい。
 神山健治攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEXシリーズを見始めたら、といっても随分と経ってからなんですが、なんかもう素子さん素敵。
  
 この人の脳味噌には到底適わないなと思う人というのが二人いて、コメント欄にいる「水城」さんと「ゆ」さんなんですが、何か言われたら平伏するしかないな、と思うわけです。
 私はどうやら他人目にはSに見られるらしいのですが、この人らには平伏すより仕方がない。そういう尊敬できる相手というのは好きなんですよ。畏れると同時に。
 この攻殻機動隊の主人公の草薙素子少佐は、神山ヴァージョンではそれなりに綺麗になってるし、ポテンシャルもアビリティもともに高過ぎで超格好良い。少佐の絶対的能力の前には平伏すしかない。部下が援護に駆けつけても「遅い!」とか叱られる。とりあえず叱られたい。とりあえず命令されたい。
 まぁ、この普段着はどうなのよ?とは思うけれども、私の同僚でも似たような服の人もいるので、趣味の問題としましょう。
  
 さて、この少佐ですが、身体はほぼ完全に全て義体(サイボーグ)化されていて、脳も自前を残しながら電脳化されている。残っているのは脳とゴーストと脊髄の一部のみ。
 電脳化が進めば記憶の書き換えも可能になり、義体化が進めば肉体の差異もなくなる。「自分」とはなんなのか、という唯一の拠り所が、「私」は「私」であり他者ではない、という「ゴースト」ということになる。
 人間とは何か、私とは何か、という哲学的な問いを考える場合、攻殻機動隊の以前と以後では、語り方自体に大きな変化を生むことになった。もはや攻殻機動隊の世界を意識の片隅にでも踏まえなければ、解答する自体、意味がないほどのエポックメイキングな作品である。とまで言えば言い過ぎだが、強ち言い過ぎとも言えないこともなくはない。
  
 少佐は、幼少時に全身を義体化している。そして、この少佐に想いを寄せるバトー。しかしまぁこんなんが近くをうろちょろしてたら惚れる罠。
 しかも少佐、外見上は量産型の義体を使用している。実際に義体のルックスは影響を与えるだろうが、実質的には交換可能なルックスに意味は持たない。
 そして幼少時代にオリジナルの身体を失ってしまった以上、誰も少佐のルックスなど知らない。というか、少佐も含め、誰も知りようがない。
 実際には成長していれば、自虐の詩の熊本さんみたいなルックスであったかもしれないわけだ。
 しかし、オリジナルが脳とゴーストだけであるとなると、バトーが少佐を想い続けているとすると、その対象は外見がない以上は内面しかないということになる。もちろん義体のルックスは影響するだろうが、量産型で町中に転がっているものだ。
 内面とは、ゴーストとしての「全存在」という信仰的な概念を排するならば、脳による考え方や思考など、いわゆる「人間性」というものになるだろう。
  
 その点で少佐は「人間性」のみが残っているわけで、ところが、考え方や人間性など、当の本人ですら理解しきれているわけでもなく、しかも意外に簡単に変質や喪失してしまうようなものである。
 人間というのは、そのなした「仕事(行為)」によって、その作ったもののの跡としてしか形作られない、という概念もある。だから少佐の仕事振りに惚れているという考え方もあるが、あまりしっくりこない。
  
 やはり私は、信仰的な概念に過ぎないけれども、その「ゴースト」に惹かれているとしか思えない。
 ただ、その恋愛時に発生する「ゴースト」というのは、相手にあるのか、あるいは愛している「自分」にあるのか?
 原理的には相手にあることは疑いがない。
 この、素子が「素子」である拠り所の「ゴースト」は素子にしかないと思える。
 何故ならば、全く同じ義体で同じ情報を持つ「素子」と素子の真似をする「素子B」を、正確に判別することが可能なのは、「素子」と「素子B」の二人だけだからだ。
  
 では、バトーがどうやって素子の「ゴースト」を感じ、それを「愛する」根拠に出来るのかというと、自分に置き換えて考えるからです。
 そもそも人間のコミュニケーションは、相手がコミュニケーション可能であると仮定しないと成立しないものです。人間は全てお互いにそういう存在であるという前提を無意識に下敷きにしているのです。
 二人称というか、「恋愛」という濃い「対面の関係性」というのは、相手を自分の「鏡像」と思い込みやすいと思われます。
 「私」が「私」である、というのと同じぐらいに強く、まるで鏡を見るように相手にも「あなた」は「あなた」であると置き換えて確信してしまう。
 そこで、「私」と「あなた」は等価となり、「あなたのためなら死ねる(相手の生と自分の生は等価)」となったり、「私はあなたを愛するために生まれてきた」=「私は私のために生まれてきた」と思ったりするのか。
  
 という話をこちらのコメント欄から繋がっているのではないかと、思いました。
 とりあえず、あの二人は、人間にも通じる言葉で書いて欲しい。
 おかげでこのエントリはこっちまで入り乱れて無茶苦茶です。