言葉の持つ価値の違い

  
 申し訳ないことにどこのウェブログだったのかわからなくなってしまいましたが、私はコメントを残しました。
 ウェブログの記事の内容は、長崎の市長が射殺された件に関してでした。
 ちょっと記憶に頼るので、詳細は不確かですが、こんな感じの内容でした。
>「行政対象暴力」と言われているが、損害賠償でゴネたのを断られただけで、銃撃というのは腑に落ちない。
>動機はなんであっても政治的テロというべきではないか。政治や言論が暴力によって脅かされたのだから。
  
 ニュアンス的には、右翼がかった意図があるのではないか、というものであって、マスコミもびびって情報が出せないから、裏読みの必要がある、といった誘導が隠れていたような気がする。
 それに対しての私のコメントは、おおよそ以下の通り。
>この事件が例えば、企業との揉め事で社長や担当者が殺された場合、それは「企業テロ」と言えるんでしょうか?
>「民主主義への挑戦」という発言をしている人もいましたが、企業との揉め事であれば「資本主義への挑戦」とか「企業経済への挑戦」とか言うんでしょうか?
  
 この「民主主義への挑戦」とか言っていたのは、どうも安倍総理大臣のようですね。
>選挙期間中、選挙運動中の凶行は民主主義に対する挑戦であり、断じて許すわけにはいかない。
>こうした暴力を断固として撲滅をしていかなければならないと思う。
  
 マスコミから流れてくる情報を聞く限り、どうも損害賠償でゴネたのを断られたり、あるいは融資を断られたりとか、それ以外はまだ出てきてない。
 しかし、損害賠償でゴネてたり、融資を断られた件でゴネていたり、という事実はあるようです。
 そうすると、例えば何か「政治的主張」があるとしても、公表もされなければ、別の動機も窺われる状態であって、全く「テロ」としての意味を成していないように思えます。
  
 そもそも「動機はなんであれ政治的テロ」とか「選挙期間中の凶行は民主主義に対する挑戦」というのであれば、例えば代議士が不倫相手との痴話喧嘩から刺殺された場合でも、選挙期間中ならば「政治的テロ」や「民主主義に対する挑戦」になるのでしょうか?
  
 あるいは、民主主義に反対して行われる革命行為ならば、必然的に「民主主義に対する挑戦」になるし、またそれがテロという手法を取れば「政治的テロ」になるわけだが、それがどうしたというのだろう? と思って気が付いた。
 どうも世間と私とでは「テロ」という言葉に対するニュアンスが違うらしい。
  
 私は、民主主義であれなんであれ、国家というものの背景は暴力装置であり、そしてそれが「権力」であるという理解をしている。暴力装置を独占することが、国家という「権力」の安定に繋がる。
 その「権力」に抗う必要が出来たときには、その「国家」が持つ暴力装置を超える暴力を持たないと、体制を変えることが出来ないと知っている。明治維新も然り。
 だから私は、テロというのは最終手段に常に担保しておかなくてはいけないし、その意味からも「絶対的な悪」の烙印は押していない。
  
 しかし、地下鉄サリン事件や9.11同時多発テロ以降、世間での評価は「テロは絶対悪で卑怯者のすること」という認識が根底にあるのではないか、と。
 つまり、「こいつのやったことは悪いことだ」と言いたいときに、レッテルを貼るように「テロだ」と言いたいのではないか?
 私は逆に、ヤクザのインネンや揉め事からの破廉恥犯に「テロ」などという政治犯の、若干高尚感の漂う区分けをする必要があるのだろうか? などと思ってしまったわけだ。