主観の気遣いと客観の媚

  
 媚びる男 媚びる社員についての話です。
  
 言うまでもありませんが、下に二行空白改行のある「サービス精神が旺盛な中間管理職は、他の中間管理職の迷惑である。」までの部分は、皮肉ですよ。
 正直、皮肉の部分に「共感」されてしまったのは、ある意味衝撃でした。皮肉まで解説が必要なほど価値観が多様化しているのか、この社会は!! ←ここも皮肉です。
  
  
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20070509%231178676118
tomo-moonさん
>「サービス精神・気遣い」と「人を不快にさせる媚び」を混同して語るのはおかしい。後者は「自分だけがいい思いをしたい」エゴを「むき出し」にする「気遣いの欠如」。するのは自由だが、非難されるのもまた当然。
  
 あれ? 私は、tomo-moonさんのスタンスというのは「私はそういう人間が嫌いだ」だと思っていました。
 「非難するのも当然」だったのですか? そうすると随分と話が違うなぁ。
   
 そもそも「人を不快にさせる媚び」というのの、人とは誰ですか?
 これはMasao_hateさんが言うように、自分が媚を売られるのは嫌な気はしないものです。あまりに底が透けてて嫌だったりとかはあるかもしれませんが、それは上手くやれ、という話で。
 嫌いな人からの媚で嫌だったりとかはもはや別の要因ですし、上手ければそれで「嫌いな人」から卒業できるかもしれないし。
 他人から見れば「媚」にしか見えなくても、言われている本人は「本気」だと思っているかもしれないわけで、言っている本人も実は「本気」かもしれないし、この場合の「人を不快にさせる媚び」というのは、誰宛のものなんでしょうか? 誰が「不快」だと感じる話で、誰が「媚」だと判断するのか?
  
 それこそ、見ている他者が不快であるならば非難していい、となると、例えば誰かが「私はブスが不快だ!」「貧乳など以ての外だ!!」などとキノコの帽子をかぶって言い出したとき、やはりブスや貧乳は「非難されて当然」となるのでしょうか? 私は美人よりも知性重視だし、貧乳は大好きですよ。
 私は、不快であるから「嫌われる」と言うことと、道徳的などの価値観により「非難されて当然」との間には、大きな差があると考えます。
 それを「非難されて当然」と言えるのであれば、それこそ「東京大学を首席で卒業する奴は非難されて当然」という、無意味なまでのインフレ状態だと思えます。
 非コミュと称する人間が不快」という人にも、「非難するのも当然」のお墨付きを与える事にもなりかねません。
 逆に言えば「サービス精神・気遣い」が不得手であるために、コミュニケーションが苦手な人間も、「自分だけが楽な思いをしたい」エゴを「むき出し」にする「気遣いの欠如」として、「非難されて当然」ということにもなります。
 それこそ「非コミュ」を見ていて不快だという人もいるでしょうし。
 私は飽くまでも、嫌うのは勝手だけれども、非難するというのは違うと思うわけです。
  
 tomo-moonさんのいう「非難されて当然」というのが、私のいう「嫌うのは自由」であるならば、確かに、嫌うのは自由ですよね。ただ「私だってあんたが嫌いだよ」と言われるだけの可能性は常に孕んでいるわけですが。
 私の言っている「非難」や「批判」は、好き嫌いの「嫌い」ではなく、善悪の「悪」をいうことです。
 「お前、キモいんだよ!」という「非難」とは別の話をしています。それは「罵倒」であって、嫌いなだけです。
  
feather_angelさん
>まわりにこびる女性しかいないのだろうか?
  
 まわりにこびる女性しかいないのなら、それは幸せなことでは? 媚びる女性をいっぱい侍らしたいですよねぇ。私は一途だから一人でいいですけど。
  
onkさん
>恩恵を理解しているのであれば努力すべきだと思うんだけどなぁ.敢えて自分を切り離すのは何故なんだろう?
  
 私はそこまで努力無限大を信じてなどいないのです。人間の悲しい部分を知っているだけです。
 東京大学を首席で卒業できれば恩恵があるだろうなぁと思うけれども、その努力のコストと、恩恵の可能性を考慮して、努力を放棄する人間がいるし、自分もその中の一人だという認識があるだけですよ。
 努力を放棄した人間は、ただただ、東大を首席で卒業する人間を讃えるのみです。
  
Masao_hateさん
>媚を売られるのが嫌いな人なんて、いません!自分が媚びを売られるのは好きだけど、他人に媚を売るヤツは嫌いだなんて、なんてワガママな人達なんでしょう!
  
 自分が売られている媚は「本気」と解釈して、自分向けのものは「媚」とは思わないのでしょうね。
 あるいは、自分が売る媚は本気で、あいつのは媚であって本気ではない、とか。
  
 「気遣い」は良いけど「媚」は駄目、という場合、その気遣いと媚びの境目の基準はどこにあるのかという話で、それは批判する側の主観だとなると、ジャイアン理論になるんですよね。
  
 露悪的に「媚」と書いていますが、それがいけないなら、全てを「気遣い」に変えて読んでもらってもいいんですけどね。本気かどうかという本人の主観なんぞどうでもいいし、本人が本気でも、他人から見れば莫迦莫迦しくて嫌うなんてことはいくらでもあるわけだから。