id:torlyさんへ質問

  
 torlyさんからトラックバックをいただきました。
 私の書いたことをきちんと踏まえて返答をしていただいた唯一のエントリで非常に面白うございました。
 ポストモダンを経た現在、踏まえたうえで、多数並列に提示されている「宗教」の中から、どれを「自覚的」に選び取るのか、という作業が重要になってくるわけで、その中で結局は「人権」とか「民主主義」とか「科学」とか「リベラル」という「宗教」をまた選び直す人も出てくるだろうけれども、そこには落とし穴があるわけです。
 少なくとも建前上であれ実質的であれ、現在の「価値観」として覆っているパラダイムを信仰する場合は、その信仰が自覚的であるのか無自覚であるのか、常に確認をしないといけないわけです。
 「体制的」ではない信仰であれば、ことあるごとに信仰を試される機会にぶち当たり「自動的」に再確認させられるわけです。
 まぁ、もっとも、現在の「価値観」として覆っているパラダイムに流されそうになるのはお互い様ではあるんですが。
 ともあれ、torlyさんは「自覚的」に「リベラル(と言ってしまっていいよね?)」を選んでの宗教対立の話にて返答をくれたわけです。
  
 宗教対立ですから、どっちの「神様」が現世利益に適っているのか、とか、どちらが極楽浄土に近いのか、とか、こっちの楽園のほうが綺麗だ、とか、こっちの水のほうが甘いぞ、という争いをするわけです。
 そのうえで、相手の矛盾を突付き合うのが「安土宗論」です。
  
 私が先のエントリにて、インテリは不用意なことは書かないという話を書いたわけですが、torlyさんは「マイノリティ(笑)差別反対(笑)」にて、きちんと腐れインテリ病を発揮されて、保険を掛けまくりのエクスキューズ満載です。
 「かもしれません」の連呼はやり過ぎなほどですが、これは私も他人の事は言えないことをしていそうなので、結構なお手前で、と申しておきます。
  
 さて、torlyさんが以下の問題をどう処理をしているのかを教えていただきたいので質問します。気が向いたらお教えください。
  
1. 「自我」とは何によって形成されるのか?

DQNの子はDQN」という世間知て、そりゃそもそも科学ですらないし、「人間」は環境が作るが真理などというと増田だったら釣り記事扱いというのが真理。

http://d.hatena.ne.jp/torly/20070926#1190823223

 前半部分の「世間知」については、そもそも誰も「科学」と言っていないのはお互いに了解済みのことだと思うので置いておくとして、後半部分。
 ここでもtorlyさんは、自分の意見ではなくて「増田だったら釣り記事扱い」というエクスキューズが利く書き方をされているわけですが、torlyさん自身は如何にお考えなのでしょう?
 私は「人間」は環境が作る、という真理と、ここだけは断言で書いているわけですが、さらにはこちらでも人間が環境によって形成されるとわかっていると再度断言しています。
 何故に私が、ここに関してはしつこく断言しているのかというと、他の要因が思い付かないからです。
 逆に言えば、「生来的」な影響などは「遺伝」などの形質以外は思い付かないし、その差異も、「環境」に比べればほとんど無視をして差し支えない程度のものと思えます。
 さらに言えば、「近代的」な「人格」もしくは「個人」というものの「自我」の「本質論」を、その「精神」や「魂」という架空のものに預けるならば、その精神が、その遺伝を持つ身体に宿るのは、その精神の「理性的」な選択による(自己責任)と見做すのかどうか。

発言上人間性は生得的であるとしてもぼかしても、あんまり人々の下す判断は変わらないようです。

http://d.hatena.ne.jp/torly/20070929/1191083053

 というかたちで、この部分に関してはtorlyさんは「ぼかして」いらっしゃいますが、その言説の効果がどうであるかではなく、torlyさんの認識がどういうものなのかに興味があります。
  
2. 「民主主義」の特殊性から生まれる問題

さらに複雑なことに、武器として統計を積極的に援用すべきだと思っており、今のところ統計は大半「宗教」を裏付けるものであり、統計に表れるかもしれない傾向故にアンチ「宗教」格好悪いと思っています。

http://d.hatena.ne.jp/torly/20070929/1191083053

 ここでいう「アンチ宗教」は、今現在日本社会で建前上支配している「アンチリベラル」であると認識して話を続けます。
 ここで「統計」が味方をするのは「現在の支配的なパラダイムであるから」ということだと思います。
 「民主主義」というのは「啓蒙」を建前上は必須にしています。
 しかし、現状として、「現在の支配的なパラダイム」という「自覚」がある人間というのは極少数です。
 「民主的」な言い方をするのであれば、大衆は「体制のパラダイム」に「洗脳」されている状態です。
 全ての「価値観」を同じ地表に並べて、其々が各々の「理性」で選び取ったのであれば、それは「民主的」に意味のあるものになるでしょうが、そういう必要と思われる選択のための「情報」が無いままで多数支持を集めるのは、「啓蒙」の観点から「リベラリスト」はどう考えるのでしょうか?
  
 次に、政治的な実務作業として、ブラジル人排斥を支持する「世間知」で身を守ろうとする者を、坑儒焚書しようとされるわけですよね。
 「民主主義」的に、torlyさんが「脳がお花畑」とするNIMBYの連中を排除するのは、論理的な内部矛盾をどう解決するのでしょう?
 「民主主義」は多様な思想を許容するという建前が重要なポイントの一つですが、その「反民主主義」という立場に対しては、多様な思想を許さないというのであれば、他の「宗教」と同じであるし、そもそもの「理念」が吹っ飛んじゃってます。
 言ってみれば、ブラジル人を全て排斥どころか殺害した上で「私たちの地域ではブラジル人差別はありません」と言っているのに等しいわけです。ブラジル人が全滅していていないんだから、差別しようがありません。
 まぁ「リベラル」の大元が、ヴァンデに地獄部隊を派遣したわけですから、兄弟分の「宗教」が行ったホロコーストも粛清も同じ道でなんでもござれと言うことなのかもしれませんが。
  
 このあたりの整合性について、どのような処理をしていらっしゃるのか、よろしければ教えてください。
 「異教徒は殺せ。莫迦は騙せ。理念なんぞは糞喰らへ」という、「民主主義」を根底から覆す立場であるとするなら、その「反民主主義者」の異教徒認定は如何な扱いになるのでしょうか?