亀田大毅を罵るような批判に思う

  
 ネットにおいて、WBC世界フライ級タイトルマッチでチャンピオンの内藤大助選手に敗れた亀田大毅選手を、罵ったり侮辱したりしたような批判を多く見かけた。
 たしかに亀田は、その兄弟はおろか、父親まで一緒になって、みっともない挑発をしたり、相手を侮辱したり、酷い振る舞いをしてきたのは事実である。その点は批判されて当然だ。
 しかし、私としては、亀田をそこまで悪し様にボロクソに貶す人たちに、どうしても眉を顰めて見てしまう感情も隠せない。
  
 男が命を懸けて戦って、それに敗れて責任をとって腹を切ろうというのに、死者に鞭を撃つようなことをするなよ。
 これから彼は、十八歳という若さで、自らの死という恐怖と、そして、腹に刃を突き立てるという痛みと、戦わなくてはならない。
 三分十二回を戦った末、これからまた、死の恐怖と、さらには切腹の恐怖と、戦おうという。
 その男に対し、これから潔く散ろうという男に対し、いまさら罵倒の言葉など投げかけるべきではない、と思ってしまう。
  
 これまでのビッグマウスが祟って、あるいはこれまでの言動によって、非難を浴びせられるというのはわかるのだが、しかし、死を目前にしてもなお侮辱をもって叩かれるのは、私はどうにも不憫でならない。
 たかだかボクシングの試合に負けただけで、それに自分の命を懸けようというのは、たしかにそれはそれで愚かな振る舞いだったかもしれない。
 しかし、彼はその約束に対して、誇りを持って挑むはずである。敗れた以上は武士に二言はなく全うするしかないのだが、せめて、潔く逝こうとする彼を、罵りの言葉で送るのではなく、静粛な気持ちで見届けてやりたいではないかと、願わずにはいられない。
  
 人が一人死ぬというのに、その命を、しかも、日本人の情緒に少なからぬ厳粛な気持ちを与える切腹という儀式を迎えようという彼に、もう少し礼節を持てないものだろうか?
 これを「日本人の感覚」と呼んでしまうのは、あらゆる意味でセンチメンタリズムに過ぎるのかもしれないが、私は、命を懸けて戦った男の最期を、それに相応しい礼節を持って見送りたいと思っている。