科学者の天体運動の研究と百姓の足元の泥濘

  
 ブログ「しあわせのかたち」から、文学とは何か? と、そのコメント欄から発生した次の記事、「学問」、「科学」という名の信仰という二つの記事をあわせて読んだ。
  
 「物語の読み方は自由である。唯一の『正解』は『読者の数だけある』」という話についてなんですが、先サイトのコメント欄では、明らかな莫迦は間違っている、もしくは莫迦といって差し支えないのではないか、という話をしている。
 それすらせずに、線引きなんてできないよね、という相対主義的撤退戦というのは、あまりにも臆病過ぎていて、何も言っていないに等しくなるというか、そもそも論として元のテクストの価値すらも否定するものではないか、という話である。
 この時点で話についてこられない方はいないとは思うけれども、いたとしたら、その人はもう莫迦と言って差し支えないのではないか、というのが私の主張である。
  
 たとえば、日本最古の物語ともいわれる『竹取物語』を読み、「この作者の言いたいことは、朝食を摂る重要性とそのダイエット効果にある」などと言っていれば、余程の裏がない限り、間違っていると言ってしまったほうが良い。
 ただ、同じぐらいの偏差値に思えるような「美人ってわがままでも許されるって話だよね」というのは、一見莫迦っぽく思えるかもしれないけど、強ちどころか、まるっきり外れていないため、これを間違っているということは難しい。
 その一方で、「ブルジョアや権力を持つ人間は酷い目に遭うものなのだ」という共産主義プロパガンダ的理解になると、知的なのか莫迦なのか一周まわって判断に困る。
 しかし、どこまでいっても「朝食を摂る重要性とそのダイエット効果という話」という読みは、間違っているとか、ハッキリ莫迦だと言うべきだろう。
  
 「学問」、「科学」という名の信仰という愚にもつかない記事の最後で、以下のような記述がありました。

 ある種の考え方、思想、論考は、それが優れているだけに、一見「なんにでも使えてしまう」ように見えてしまいます。マルクスの考え方も、フロイトの考え方も、ボーヴォワールも、レヴィ爺やポパーの考えでさえ、「それが有効な場面と、そうでない場面がある」ということを常に意識しておくこと。
 そうでないと思想自体が死んでしまう(マルクス主義がよい例ですね)ということは、再三指摘されていいことだと思うので、書いておきます。

http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20080315/1205558393

 これは本当でしょうか?
  
 私が先ほど書いた、竹取翁の物語の共産主義プロパガンダ風理解の類のことを指していると思われますが、そんなんで思想が死ぬんでしょうか?
 例えば、竹内久美子がどれだけ利己的遺伝子を万能風に書いたとしても、それで死ぬのは、ドーキンスでもダーウィンでもなくて、トンデモ竹内の信憑性だけでしょう。
 マルクス主義が死んだのは、トンデモによりオールマイティに使われたことよりも、実践してみたんだけど、誰も実践し切れなかったし、どうも、誰がやろうにも無理っぽいよね、という死に方じゃないの?
 遺伝子であれ脳内物質であれ無意識であれジェンダーであれ、一元的に、もしくは二項対立で、世界中の全てを語り得てしまえるという考え方が眉唾なのは世間知としてはその通りではあるのだけれども、マルクス主義がそうすることによる死に方であったのかどうかは、疑問を感じます。
  
 イデオロギーというのは、世界の切り取り方とも言えるわけで、原則的にはそのイデオロギーのフィルターを通して、世界を見るわけですから、そのイデオロギーは万能として使われるのは、ある意味で止むを得ない面もあります。
 問題は、イデオロギーによって、他の切り取り方が莫迦に見える場合というのがあります。
 例えば、日本で最も有名な物語の一つである『桃太郎』。
 反実力成果主義年功序列主義の生徒が「この物語では、活躍如何に関わらず、きび団子が支給されるという安心感により、ファミリー的な団結が生まれ、犬猿の仲と言われるほど仲の悪い犬と猿が協力し合い、その結果として強大な鬼にすら勝つこともできるという教訓が含まれている」と答えたとする。
 これを、リベラリストの教師が「この生徒は駄目だ。被雇用者である犬猿雉は、きび団子を労働前に支給されるという、いわば前借金制度の被害者であり、嫌でも強大な鬼と戦わなくてはならない、ほとんど奴隷として扱われる可能性について問題視すべきだろう」と判断するかもしれない。
 さらにこの生徒の父親は反植民地主義オリエンタリズムで「一方的に『鬼(野蛮)』と呼ばれて差別される者が、鬼退治なる正当化のためのスローガンとともに、畜生どもに侵略されて襲われる悲哀を描いた話なのに」と先生に詰め寄るかも知れない。
 その話を聞いた生徒の母親は、自分の夫に「桃太郎が勇敢であるという描写は、ジェンダーの規範を押し付ける物語であり、爺さんが芝刈りに行き、婆さんが洗濯するというのも、女性を家事に押し込めるという、男社会を強化させるための物語だ」と言うかも知れない。
 あるいは人によっては桃太郎を単なる英雄譚として「桃太郎って勧善懲悪で鬼をやっつけるヒーローだよね」と読むかもしれない。
 ここまでくると、どのイデオロギー莫迦で、どのイデオロギーが深いというよりも、筒井の「一杯のかけそば」分析や、スケベメガネおっさんによる『大塚愛「さくらんぼ」分析』のように、知的遊戯のネタなのか、あるいはマヂなのか、「もうそれって『桃太郎』は関係なくね?」ってレベルに至ったりする。
 それ、別に『桃太郎』から読み取るのは間違ってんじゃねーの? というね。
  
 ただ、一つだけ言えることは、ある一つのイデオロギーや、一つの読み方しかできない者が、自分の読み方を「これが正解だよね」と思い込む読み方よりも、複数のイデオロギーによる複数の読み方をできるだけ多く踏まえた上で、一番妥当であったり、知的であるものを「選び取る」という工程を経たものの方が、間違いなく価値が高いのではないか、ということである。
  
 莫迦にはどうやっても理解できない高度な読みというのは少なからず存在し、その読みの価値が、「だって、考え方って人それぞれだよね」などという莫迦な妄言一つを印籠のように相対化させて「どっちも等価値」なんかにしてしまって良い訳がないと思うんですけど。