せっかくの美人がもったいないと思う心

  
 少し前の話なのです。
 私は普段から喫茶店にいくという習慣はないのですが、家の近所にえらく美人な店員がいる喫茶店があるという話を聞きました。
 その話は、お袋から聞いたのですが、喫茶店を経営している人の娘さんで、とにかく昔から綺麗で評判だったそうで、その人が喫茶店の手伝いを始めたそうなのです。
 私はその美人さんを見た記憶がなかったので、なんでそんな美人を見逃していたのだろうかと思ったら、住んでいる場所はちょっと違うらしい。
 私の家は駅からすぐの場所にあり、喫茶店も駅の近くにあり、喫茶店の主は駅から少し離れたところに住んでいる。
 そして以前から、その美人はたまに喫茶店を手伝うことがあって、それで「あそこの娘は綺麗だ」という評判になっていたのが、はれてずっと継続して喫茶店を手伝うことになったわけだ。
 私は、そんなに美人であるならば、そりゃ是非とも行かなきゃならんねと思いました。実際にその美人目当てで喫茶店に通う人が少なくないとのことでした。
 お袋は私に言いました。「可哀想にね、せっかく綺麗なんだけど、ちょっと頭が変なんだって。もったいない」
  
 結局のところ私は喫茶店に行く習慣がないため、その喫茶店に未だに行っていないわけなんですが、私が行く前に、その美人さん、入院なのか通院なのか知りませんが、病院にかかることとなり、喫茶店から今はいなくなってしまったそうです。
 頭がおかしいというのは、まぁ、どの程度かは知りませんが、結婚や交際するにはそれなりの大変さを伴うわけですが、喫茶店に客として行く分には、リスクもないだろうから、その評判の御尊顔を拝見しに行きたいとは思っていたのに、未だ適っておりません。
 しかしその、美人さんがいなくなってしまったという話を聞いて、私が思ったのは、図らずもお袋と同じ「せっかくの美人なのにもったいない」でした。
  
 全くの酷い話だと思います。
 例えば、精神病にかかっている人がブスだった場合に「ほう、もったいないことにならずに良かったね」と思うのか、というとそういうわけではないですが、それでも美人であるというと、もったいなく感じてしまうわけです。
  
 人間には、容姿のほかに、人間性とか知性とか学歴とか資産とか地位とか、様々な種類の魅力が存在するわけです。
「あの人、いい人なんだけど不細工なんだよね」とか「頭はいいんだけど金がない」とか「学歴は高いんだが人間性が歪んでいる」とかあるわけです。
「良い人なんだけど顔が悪すぎる」というのは多少同情を集めますが、基本的には「もったいない」と思われるのは、肯定的な魅力が「容姿」に限るような気がします。
「金はあるんだけど頭が悪い」とか「学歴はあるが人間性が歪んでいる」というのは、全く同情も憐憫も集められないのに対して、「可愛いのに貧乏だ」とか「美しいのに学歴が低い」とか「綺麗なのに性格が悪い」といわれると、もったいないと思ってしまう。これは男性だけかな?
  
 これはまず、容姿というのが、なかなか本人の努力により成り上がるのが困難である、という問題がある。
 普通なら、本人の努力でどうにもならないことこそ、同情や憐憫を集めそうな気がするけど、逆の結果になっている。
 私は美人が大好きなので、徹底的に擁護してみると、本人の努力でままならないからこそ、神から選ばれ愛されている徴と言えるわけです。
 そして、他の魅力や能力が、ある程度の恩恵を受けるまでが、多少なりとも親密性を必要とするのに対して、容姿というのは、見て、それだけで幸せを感じることが出来ます。
 美人は、それだけで万人に幸せを配りまくっている天使と言えるでしょう。上原さんと赤嶺さんがこの世に存在したおかげで、私がどれだけ喜んでいることか。もう大好き。
 人間性とか知性とか学歴とか資産とか地位とかは、直接に分配されたものしか喜びは感じられないのに、美人は会う人その全てに喜びを御裾分けをしているのです。
 だからこそ、美人には是が非でも幸せになってもらいたいものです。
 それが阻害される不幸な事象がある場合、私はそれが残念でならなくて、そして、とてももったいないと思ってしまうわけです。
 もっとも、その美人さんに「もったいない」と感じたことには、美人は富を得る手段というか武器になる、という意識もあるのかもしれませんが。
  
 私としては、その喫茶店の美人さんから、その幸せの御裾分けを貰い損ねていることが、もったいなくて仕方がありません。