グロス・ナショナル・クール

  
 HNK-BSにて、COOL JAPANという番組をやっているらしいですが、今のところみたことがなく、先月たまたまその特番は見ました。
  
 欧米では日本ブームが凄く、GNCという「どれだけ文化や流行を発信する力があるか」という指標で、日本は世界で最大級の評価を得ています。
 フランスに「JAPAN EXPO」という催し物があり、日本に関するもの、マンガ、アニメ、J-POP、ファッション、グルメ、プロレスなど、日本の最新文化に関するものを集めて、フランス人が企画してやってるそうです。今年で十年目。
 それを現地で紹介しながら、司会の鴻上尚史とリサ・ステッグマイヤーが、フランスの日本愛好者と座談をするという、特別編でした。
  
 その番組中、フランス人の発言に対して、鴻上が妙なこだわりを見せ、その部分だけ、不思議な雰囲気になりました。
 何故にそんなところで頑なに我を張るのか?
 私は、その鴻上のこだわりが納得できていたので、鴻上なりの演出というか意図を非常に面白く感じていたのですが、後で2chの実況を見ると、もう批難囂々で凄いことになっていました。
 鴻上が何にこだわっていたかというと、日本好きなフランス人が、ご飯にしょうゆをかけたりする「なんちゃって日本食」というのを食べて、現場ではおいしいと完食していたのに、番組では「フランスで食べる日本食は、日本で食べる本当の日本食とは違っておいしくない」と発言したわけです。で、鴻上は「日本人の俺が食べてもおいしかったし、アンタも現場ではおいしいと完食してたじゃないか!」と切れました。
 それに対して、そのフランス人が「おいしいが、本当の日本食はもっとおいしい」と答えて、鴻上はさらに「本当においしい日本食は、日本で食べたって高いんだ。あの金額で食べるならば、あのなんちゃって日本食はおいしかっただろ?」と、やたらとこだわったわけです。
 確かに、そのこだわり方は異常で、日本の文化を高く評価してくれているフランス人様に、何故にあのような態度で、くだらないことをしつこくしているのだ。それはきっと鴻上が気違いで朝鮮人だからだ、という鴻上への罵倒ばかりで2chの実況スレは埋まっていました。擁護が見られないという凄まじい状況でした。
 しかし、鴻上が異常にこだわったおかげで、とても面白い回答をちゃんと引き出してました。
 鴻上はそのフランス人に「あなたは日本で日本食を食べたことがあるのか?」と。
 フランス人は答えます。「ないけれど、日本の日本食はもっと美味しいはずだ」と。
  
 その番組を見ていて、私の持った感想でもあり、また、おそらく鴻上が現地で感じたからこそ、こだわった部分だと思うのですが、フランス人は、見たこともない日本に対して、マンガでの憧れを全て投影しちゃってるんですね。
 フランスでのマンガ文化はしっかり浸透していて、日本におけるハリウッド映画の感覚で、あるいはそれ以上に日本のマンガが受け入れられているわけです。
 その世界最先端の憧れの「マンガ」の中で、背景として描かれる日本文化の全てが、格好良く感じられ羨望のまなざしで見られる。
 それはあたかも、戦後間もなくの日本が、テレビで見るアメリカドラマの生活に憧れて、アメリカの全てが理想に思えてしまう構図と完全に一致するわけです。
 日本のゴスロリファッションなどをCOOLだと感じるフランス人は、「日本には自由があり、フランスには自由がない」と言う。鴻上が「パリはファッションの街だと思うけど」というと、フランス人は「フランスは伝統にうるさい。日本は自由で、フランスに自由はない」と。
 フランスでは、あんな格好で外に出ることは出来ない、と。
 鴻上は「外には出られるが、白い目で見られてるんだ」と言うわけですが、外に出られるだけで、フランス人には、原宿のゴスロリと秋葉のメイド服と、セーラー服&ルーズソックスが、自由の象徴のわけです。
 まぁ、確かに「自由」ですね。日本は。他者の白い目というものに無頓着でいられる「自由」が確かに日本にはあります。
 神からも世間からも解き放たれ「自由」になりつつあります。他国に比べれば。
  
 鴻上は、在りもしない「ジパング」への幻想を無駄に否定しようとし、2chは日本が「黄金の国」と言われることを邪魔する鴻上が憎くて仕方がない。
  
 パブリックイメージ、商品価値というのは、付加されている幻想の部分を含んで評価されるものです。
 ブランドのバッグとノンブランドのバッグの違いなど、実際のバッグそのものの価値は大差などなくても、価格は大差がつくものです。幻想に対して対価を払うことはままあります。
 欧米人が、マンガによって日本に抱く憧れが大きいならば、その幻想ともいえる憧れを含んだものが、日本の商品価値であるわけです。
 そのような評価を得るというのは全く簡単なことではなく、それを無意味に手放すべきではないのは当然のことです。例えそれがオリエンタリズムの産物であったとしても。
 しかし、完全に虚像の部分を誤解で褒められるとき、それを訂正したくなるのが「日本人の美徳」であるでしょうし、また、その幻想のメカニズムに口を挟みたくなるのがインテリであり文化人というものでしょう。
 逆にいえば、誤解の上の日本像をフランス人様にいただいて、それで自尊心を満足させる日本人と、幻想を吹き飛ばしてもなお、裸のままの日本文化でも欧米に評価されると考える日本人と、どちらが愛国者と言えるのか?
  
 実質以上に評価されると言うことは、照れくささを伴うものです。照れるどころか、自らもその気になってしまうアメリカ様というのは、やはり偉大ですね。