お特養

  
 自分が生まれる前に亡くなってない限り、全ての人間には血の繋がった祖父母が四人います。
 今は三人が他界し、一人はまだ健在です。
 お亡くなりの三人は、父方の祖父が、家で倒れて救急車で運ばれて死亡。母方の祖母が、糖尿病治療で病院にかかっている際に、看護婦のミスで骨折し骨が内臓を傷つけてそのまま入院。退院することなく死亡。母方の祖父は、ほぼ寝たきりの状態が五年ほど続き、私の自宅にて死亡。
 父方の祖父は、全くボケる前に、しかもいきなり救急車で入院し一両日中にはお亡くなりという状況でした。母方の祖母は、しっかりボケてしまっていて、こちらもその旦那である爺さんが十年近く、私の母親と寝たきりの面倒を見ていました。その面倒を見ていた爺さんも、しっかりボケて、曾孫がいるときだけはこっちの世界に戻ってきてましたけど、しっかり痴呆でした。
 最初の爺さんはいきなりでしたが、母方の方は二人ともボケ始めてからが長かったですし、祖母は突発的な病院での事故があったので病院でなくなってますが、祖父に関しては本人の希望通り自宅での臨終という最近は珍しい希望も果たせて、私はそのことは非常に良い事だと思っていたわけです。
  
 で、祖父を家で看取ったということもあり、近代個人主義とは外れた、家族が老人を看取るという昔ながらの物語に、私は価値観を持っていたし、逆に、近代個人主義による「私の人生が親という他人の老後の面倒により、私の自由が阻害されることは承服できないから、国家が老人福祉をやるべし」という価値観に対しては、非常に嫌悪を持っていたわけです。
  
 未だ健在の父方の祖母は、元々が非論理的な「痴呆のような人」ではあったのですが、完全に痴呆の人になってからもかなり長くて、ここ数年は、ほぼ寝たきり状態になっています。
 私の母が自宅で面倒を見ているのですが、もうしっかり要介護認定も最高の「5」評価を得ているぐらいで、老人福祉施設にかかる資格は充分に有していて、それが介護保険料を支払う身となったことから、私の母は、父の妹(私の伯母)と相談の上、週に数回、デイサービスを利用することになったわけです。
 デイサービスを利用することで、私のお袋さんは負担が減ったわけですが、やはりここで少し考えてしまうわけです。
  
 やはり自分の、あるいは配偶者の、親を自分の手で面倒を見るべきではないか、という価値観があるわけです。
 その一方で、介護保険料を徴収されながら、自分の手で自分の親の面倒を見ているという、そのやりきれなさというものが発生し、デイサービスを利用することになったわけですが、それが結局、近代個人主義によるモラル破壊を生んでいるのではないか、と。
 金を取られていて、権利があるんだから、使わないと損だという、非常に脆く価値観は崩されていくわけです。人間はこういう手段に弱いね。
 でも、やはり、どうしても抗いたい。
  
 ところが、デイサービスに行くようになってからしばらくして、祖母の、痴呆の度合いが著しく波があることがわかりました。
 正直に言うと私は、福祉施設にて、ボケた年寄りが集まって歌なんか歌わされているような状況に同情をしていたのですが、どうもそのデイサービスに行った日は、疲れてしまいグッスリ朝まで寝ているのに、デイサービスに行かない日は、寝たきりのくせに、這って深夜徘徊をしようとベッドから落ちたり落ちそうになっていたりするのです。そのときは、完全にこっちの世界にはいません。
  
 私は、自分の親の面倒を自分で見るということは、良いことだという認識でいるのですが、祖母の波のあるボケ具合をみるに、デイサービスに行った日のほうが、本人にとって幸せなのかもしれないのかな、などとも思い始めています。
 母親は、自分の家族の面倒を、金や税金で他人に見てもらっているという状況は、どうしても割り切れぬ部分があるようで、多少の罪悪感が残っているようです。