子供は人間じゃない

  
 数日前の番組で政治評論家の三宅久之とコラムニストの勝谷誠彦が、田嶋陽子に対して「子供は人間じゃないよ」と怒鳴っていました。意図としては、子供はまだ理性は備わってなく、教育していくことによって人間になっていくのだ、という主張です。
 田嶋陽子に関しては、論外の阿呆であるとは思うのだけれども「子供だって人間だよ」というのは、そう考える動機と結論は同じなんですよね。思考経路と論拠は全く別なんですけどね。
  
 私が、三宅や勝谷の主張に賛同できないのは、田嶋のように「子供にも一個の人格を認めているから」ではなく、むしろ、人間全ての人格に疑問を持っているからなんですね。
 確かに、子供というのは人格形成の途中段階であり、ある程度まで成長すれば、良くも悪くも人格形成は頭打ちとなり、伸び率というのは極端に悪くなる、と思って差し支えなさそうです。たぶん。
 それの平均値が、十八歳ぐらいにして、概ね社会的に必要とされる理性や人格を身に付けているというコンセンサスがあるのかないのか知りませんが、そういうことになっています。
 三宅や勝谷のいう「子供は人間じゃない」と言うときの「人間」というのは、これはイコール理性や人格を身に付けたものが「人間」である、というテーゼです。つまり、理性や人格がまだ不十分である子供は、未だ「人間」になっていない、未成人である、と。
  
 この考え方は、かなり当たり前のような気がしますが、実は非常に危険でもあります。
 逆のケースを考えてみると、私の祖父母で唯一のサバイバーである父方の婆さん。まぁ、もともと通常の人間の理性や人格のある人ではなかったのですが、痴呆が酷くなっている今現在は、小学生の甥っ子よりも理性も人格もありません。
 教育で育成されていく子供と違い、ボケだってどんどんと進行する一方で、理性も人格も人間性も崩壊していくだけで、育成されていく可能性はほぼ皆無であろうと言えるわけです。まぁ、皆無ですわ。
 子供はまだ、これからの期待があるわけですが、痴呆老人などは希望も糞もないわけで、ならば理性も人格も劣化してしまった老人にも「人間ではない」と言えるのか? 言って良いのか?
  
 私としては、やはりそれなりに愛着もあるわけですし、これまで交流してきたことからも、このボケた婆さんを人間として考えているわけです。あえて言葉を逆に選べば、人間であると見做しているのです。
 しかし、その今よりは多少しっかりしていた時代の遺産がなくとも、例えば、生まれながらに障碍を背負ってきた子供を、これからとて理性や人格を備えるとは思えない人間ではないもの、と言ってしまうのかどうか。
 そこには「人間」を、いわゆる「人間性」や「理性」や「人格」に見るのではなく、「人間と見做そう」という物語からしか、人間であるということを保証できないわけですよ。
 あえて挑発するのであれば、あんたは自分が有していると思い込んでいる「理性」や「人格」って、どれほどのものなのよ? とは、思わないまでも、皮肉は投げかけたくなるし、どこまで考えた上での発言なんだろうと。
  
 もちろん、利便性を考えるときに、「理性」や「人格」を前提に考えることは有効で有益であるわけです。
 しかし、「人間」という枠を考えるとき、国家が与える「人権」というその与えられる範囲に関わる概念を定めることにも繋がる、「人間じゃない」というのは、言うべき言葉ではないと思うわけです。
 人間は、他者の「理性」や「人格」を問うことで「人間か否か」を定めようとしたら最後、この世の中には一人の人間も残らないのではないか。私以外には。というか、残ったら、それは人間ではなくて、神ですわ。
  
 人間である根拠を、「理性」や「人格」に求めるならば、そこには、極めて「非人間」的な社会が待っているのです。
  
 「子供だって人間なんだから」という言葉に返すならば、「人間だけど大人じゃない」と返せば、非常に納得の出来る話なんですけどね。