「いじめ」という言葉

  
 岐阜県瑞浪市の中学二年生がいじめを苦にして自殺をした件についてですが、学校側がいじめがあったのなかったのと二転三転して、最終的にあったので終わりそうな感じです。
 自殺後の調査で「キモい」とか「ウザい」とか言われていたとか、部活動で至近距離から速い球を投げられて取れなかったら笑われた、ということがあった、という話でした。
 そのニュースを私のキモい父親は「そんなもんがいじめか」と曰わったわけです。そりゃいじめだろうよ。「そんなもんいじめとは言わん」いや、明らかにいじめでしょう。
 普通に考えれば、これは明らかにいじめであるし、また、このいじめが自殺に繋がったのは明白でしょう。
 これを否定するというのは、正直、正気を疑わざるを得ないぐらいに、明白なことです。
 では、何故に私のキモい親父は、完全なまでに明白なことを否定しようとしたのか? というと、私の親父が常に正気ではないからですが、まぁ、他の理由を探るとしますと、言葉の定義の問題にあると思われます。
  
 話はズレますが、「差別」という言葉があります。「○○は差別だ」という使い方をされます。例えば男女差別を例にしますと「○○なのは女性差別だ」という場合、「そうではない。それは区別だ」という反論があったりします。
 その「差別」と「区別」というものの違いはなんなのか? 性別によって扱いや待遇が違う場合、それは「差別」と言えばいいわけであり、実質的に「差別」であるのに、それをわざわざ「区別」と言い換える意味はなんなのか? ということです。
 それは、その「差別」を肯定的に捉えたいときに「区別」と言っているだけです。莫迦莫迦しい。
 「差別」とは『絶対悪』であり、悪い「区別」は「差別」となり、残したい「差別」は「区別」と呼んでいるだけです。その内実は同じものです。
 「差別」と「区別」を分けるものは、悪いものか、残したいものか、という違いでしかないのです。だったら、どれを「悪い」と判断するのか。どれを「残したい」と判断するのか。その判断によって、人によって、「差別」と「区別」は行く通りにも定義される意味のない言葉になります。
 悪い「差別」を「差別」と呼び、残したい「差別」を「区別」と呼ぶならば、最初から「悪い差別」と「残したい差別」と呼べば良い。ただそれだけのことなのです。
  
 「なくすべき差別」「なくなっても良い差別」「あっても良い差別」「あるべき差別」
 これらの差別の存在を認めるほうが、言葉の定義を考える上で、曖昧な「差別」と「区別」で恣意的に使い分けるよりも、余程意味のある議論が可能になるはずです。
 性別によるトイレの別などは「あるべき差別」とする。土俵や神域に女性が入れないのは、これらの四つの差別の内のどれに当てはまるのかを考えれば良い。そう考えるほうが余程効率的です。
 しかし、そういうわけにはいかないんですよ。これが。何故ならば、差別というのは絶対悪ではないと都合が悪いからです。
 近代の「平等」というキャッチコピーのせいです。スローガンとして「平等」を掲げているから、生活の知恵として必要な「差別」までもが絶対悪になってしまい、議論の余地はなくなるけど、必要だからひねり出されたのが「差別」と「区別」は違う、という寝言です。
 「差別は絶対悪」などというくだらないキャッチコピーを、真理であるかのように喧伝するために、こんな間抜けなことになってしまったわけです。
  
 して、このたび、これが「いじめ」であるかどうかと問われれば、いじめであるとしか言いようがないわけですが、この「いじめ」という言葉にも、絶対悪のスティグマが貼り付いています。
  
 ただ、遊ばないとか口を利かないというのがいじめであるのかどうかというとこれもまた微妙な話です。しかし本人が傷付いて嫌だと感じたのなら、嫌がらせであり、いじめと定義されているのだから、いじめなのでしょう。
 例えば、誰かが誰かを無視する場合、それを苦に自殺したならば、それは無視したほうが責任を負わされるのか? というと、それは如何なものだろうかと。
 相手が友好関係を望んできた場合には、問答無用でそれに応えなければいけないとなると、それは社会的に物凄い負担を生むことになろう。というのも、私が上原さんと仲良くなれなかったら自殺するって言ったら、上原さんは私と仲良くせねばならないわけで、それは非常に素晴らしいことで大賛成なのですが、私が逆の立場だったらたまったもんじゃないわけですよ。失恋なんかも全部いじめですわ。
 無視をすることも許されない「いじめのない社会」って、それは果たして明るい社会なのか? 明るすぎて白みがかった空の下、空虚な笑いの響く社会に住みたいですか? 私は上原さんと仲良くなれますか? 空は死にますか?
  
 現状、「いじめ」という言葉が、いじめられた側の主観で傷付いたのならいじめだとされている定義において、本人が傷付いて自殺した以上はいじめであり、それが自殺に繋がったことは、それは否定しようがありません。
 しかし、その明白なことを何故に否定したくなるのかと言うと、「差別」を「区別」と、無意味な言いかえをしたくなるのと同じく、「いじめ」にも、絶対悪という刷り込みがされているからです。
 少なくともこの少女にとって見れば死ぬほど辛かったものが、いじめでもなければ自殺に繋がるものではないなどと言われてはたまったものではない。
 ならば、「いじめ」という言葉を絶対悪とするのではなく、「犯罪行為であるいじめ」というものと「なくすべきいじめ」と「許容範囲内のいじめ」というように、基準を設けて考えればいいわけです。
  
 福岡のいじめに関しては、トイレに連れ込んでの破廉恥暴行行為があったらしいですから、犯罪として扱えばいいし、なくすべきものとして対処されるべきいじめでしょう。
 このたびの岐阜の件や北海道滝川の件は、それがどういういじめであったのか、内実から判断すればいいわけです。ただ、どちらもいじめはあった。これは事実です。そのいじめが、どのような内容であったのかが問われるわけです。
  
 学校が、これをいじめです、とやってしまった場合、いじめに絶対悪のスティグマが貼られている以上は、学校側がこれをいじめと認めてしまうと、学校や校長の責任だけではなくて、いじめたこの四人の生徒が「自殺に追い込んだいじめをした子供」となってしまうわけです。私でもやってきたやられた程度の無視や悪口で。
 校長や学校が批判されていますが、私は素直に、生きている四人の生徒を守ろうとした、という見方をしているのですがね。
  
 少し話はズレるのですが、岐阜県の女の子の遺書です。
  皆さんへ
 今、誰かが私の手紙を見ている時、きっと私は死んでいるでしょう。
 この忙しい時に御迷惑をおかけします。
 今まで、私を愛し、育ててくれた家族、ありがとう。
 今まで仲良くしてくれた友達、ありがとう。じいやん、がんばって早く良くなってね。部活のみなさん、特に××さん、××さん、××さん、××さん、本当に迷惑ばかりかけてしまったね、これでお荷物が減るからね。
 もう何もかもがんばる事に疲れました。
 それでは、さようなら。

 私はこの遺書に、卑屈な悪意を感じるわけですよ。
 名前を出す以上は「お前らを呪ってやる」とぐらい書けないのか? と。最期の遺書が陰湿だなんて、なんと可哀想な生涯なのか。
 「何もかもがんばる事に疲れました」って、どれだけ頑張ったんだよ。円谷かよ。とも思ったんですが、まぁ、本当に実際に真面目で頑張る子だったらしいですね。私は真面目な子も頑張る子も好きなので、惜しいなぁと思うわけですが。せっかく真面目で頑張る子なら、もっと打たれ強く強かでないと、勿体無かったね。
 遺書で、自分の自殺までをも「忙しい時に御迷惑をおかけします」と、気を使う良い子を演じてしまうあたりに、この子の脆さを感じさせます。その気を使う良い子像が「本当に迷惑ばかりかけてしまったね、これでお荷物が減るからね」という、陰湿で卑屈な悪意を書かせてしまったからこそ可哀想に思えます。きっと良い子だったのでしょうね。
   
  
 で、聞いた話によりますと、本当に良い子らしくて、いじめに加担せず、いじめられた子を庇っていたことで、いじめのターゲットにされたらしいですね。
 なんとも痛ましい話です。いじめをかばった子がいじめられるこんな世の中ぢゃ、ポイズソ。
  
 「いじめを見て見ぬ振りをして、いじめを止めなかった子供も、いじめの加害者だ」と、クラスメイトに批判的なことを言っているテレビのおばさんに腹を立てたことを思い出しました。
 いじめについてここまで無知でありながら、全く逆の処方箋を提示するこのおばさんこそが加害者であると言えるでしょう。
 正義感を教えることは必要です。そしてそれ以上に、誰かを助けるならば、自分の身の安全確保をしてからしかすべきではないという、広い意味での処世術を教えることが重要です。蛮勇など百害あって一利しかありません。
 自らの安全確保が出来ていないときに、溺れる者を助けに飛び込むことは、人命救助で最も戒められることです。それでも子供を助けるときに飛び込むことは有り得ます。それはそれで正しい。ただそれは死ぬ覚悟でするべきことです。
 電車内でヤクザに絡まれている美女をギャンブル覚悟で助けるのもいいでしょう。上手くいけばブランドのコーヒーカップぐらいもらえるかもしれない。しかし、それはギャンブルであることを認識しているものが、結果を覚悟してする賭けであって、ましてや他者が、危険を伝えぬままに飛び込むように言うなど、ほとんど犯罪行為です。
  
 蛮勇の正義感だけ教えられ、明るくて真面目でリーダーシップのある頑張り屋さんの良い子が、言われた通りの正しい行動をとったら、現実に裏切られていじめられてしまった。
 もう何もかもがんばる事に疲れました
 善意に騙され裏切られて心が折れてしまった姿が私には見えます。