学校の勉強は何のためにするのか?

  
 こちらウェブログを読みながらなんですけどね。
  
 「世界史」は要らないと言うけれども、それはつまるところ「読み書き算盤」以外は要らないというところまで行き着くことになるわけで、三角形や台形の面積を大学卒業してから何回求めましたか? ということにもなるわけです。「腹が減ったけど金がないから光合成でもしようかな。おっと、俺には葉緑素が足りないから無理だった。いやぁ、勉強しておいて良かった」なんてことは起こらない。
 結局は受験用の勉強は出来ても社会では役に立たない「受験バカ」批判と同じく、それは「受験バカ」を減らしたところで、受験勉強程度の知識すら詰め込められない全方位完全無欠の「バカ」を生み出すだけではないのか? ということになります。
  
 イチローや松坂やにしこり松井が高卒であるからとして、それが彼らにとって何らかの問題があるのかというと、そんなわけはないわけです。それは何故なのか?
 それは代替不可能な能力を持って、学力とは関係のない世界で成功しているからです。
 それはスポーツ選手に限らず、漁師だろうが旋盤工だろうが、特殊技能を持って成功しているならば、受験知識も学歴も必要ないのです。自らの専門職の知識に精通しているならば。
 サラリーマンの多くは、代替可能な、自分でなくとも誰でもできる仕事が少なくないわけです。多少の訓練で可能な仕事が。受験知識も学歴もありませんが、自らの専門職の知識もありません、というただのバカが大量発生します。それでよいなら、新聞も出版社も潰れて結構なことです。
  
 実際はそれで良いと思うんですよ。近代以前はそうでした。百姓、漁民、工人は「読み書き算盤」の毛の抜けた程度だけで生きていたわけですよ。今で言えばバカですわ。
 しかし実際には、近代が訪れたとき、受験などの「試験」によって能力を認められるということに、一部は希望を見出していたわけです。血筋や家系で評価される時代から、個人の能力で認められる時代が来たと。
 ただ近代は、もう一つの不幸も一緒に持ってきていたんですね。民主主義です。
 民主主義は、各個人を、最高権力者として、選挙権なんかをくれちまったわけです。今もって制限選挙ではあるんですけどね。
 政治に対する審判をする以上は、判断をするべき最低限の知識を有していなければならないわけで、漁師が魚を捕る以外の政治について知っている必要が出来てしまった。漁業などには役に立たないと言うのに。いわゆる啓蒙主義ですわ。膨大な無駄の上にしか民主主義は成立しないわけですよ。
 その結果、無駄が惜しいというか、現実には真の民主主義など理想に過ぎないから、世界史の中の中東の成り立ちや情勢をよく知らない者(国民)が、イラク問題など関係する政治に、最高権力者(有権者)として権力を行使(投票)するという、俄かには信じがたい暴挙に至るわけです。
 ユダヤ人による虐殺やイスラムの不安定で、人間の命がいくつも消えている事柄の裏に、日本や米国の「世界史なんて無駄だよね」が関係しているというこの事実。民主化万歳!
  
 で、望む者以外は「読み書き算盤」以外の教育は必要ないという正論に対しては、そうなると、肝心なことは「どの分野に興味があるか?」とか「どの分野に向いているのか?」という判断も出来ないままに終わる可能性が極めて高いわけですよ。
 国家が義務教育として最低限とされるものをやるおかげで、「どの分野に興味があるか?」とか「どの分野に向いているのか?」ということに、引っかかっている部分があるのではないか、ちゅーことですわ。もっとも、それはエリートの育成のためであって、九割以上の選ばれなし者には役に立たないんだけどね。まぁ、エリートのためには愚民は犠牲になれや。知ってたって損はしないんだから。
  
 受験制度というのは、無益であるかというとそうではなくて、学歴というのはそれなりの指針として機能します。それは知能であるとか教養を量るという実利よりもむしろ、無駄とも思える知識を、無駄だと知りながらどれだけ素直にルールに従って努力するかという能力を測るのに適しているのです。
 馬鹿馬鹿しいとも思える指示に素直に従うというのは、社会的動物にとって極めて重要な能力の一つです。その能力を測れるのですから、結構なことです。才能や特殊能力がない連中は愚直である能力を養うしかないわけですわ。
  
 で、この「世界史の知識って要らないよね」という話は、どういう結論になるかというと、必然的に非専門職にとっては「読み書き算盤以外は要らないよね」という話になり、その結果として「愚民にとっては義務教育の最初の数年だけでよくね?」という話になり、多くの無駄に大学を卒業している人たちが我が身を恥じるだけのような気がします。
 中卒インテリ万歳!
  
  
 あと「人民を統治する」や「独立戦争フランス革命リンカーン」の順序を知っているからと、それが衒学趣味で暇潰しになると考えるのは、多少の今更感はありますがそれでも「プチインテリ」の楽しみ方であって、多くの愚民にとってはそんなことを知ったところで面白くもなければ聞いたらすぐに忘れてしまうことであって、ましてや「衒学趣味で暇潰しになる」と主張する人間が、一枚のおっぱい画像の前に「全ての知識よりも1枚のオパーイ画像のほうがさ“人々がよりよく生きていくため”という学問の本義に照らすと、1億倍くらい有用なんだよ」と、簡単に転向してしまう程度の価値であって、いくら「むしろ“そのために学ぶ”ものだと考えたほうがすっきりする」などと言ってみても、ずっとオッパイ画像ばかり見ていたほうが良いわけでしょう?