ペルソナ

  
 知り合いから「これは凄いから読んどけ」と紹介されたのが、勝手にリンク集にも貼らせてもらっているish☆走れ雑学女ブログの石倉さんでした。
 特に「これこれこいつは読んどけ」とオススメされたのですが、最初のものはともかく、最後のものなど中卒インテリの私には極めてわかりづらいものでした。
 本すら読むのが苦手な私は素直に「こんなん読めるか」と答えたわけですが、軽く目を通して、すぐに「こりゃ面白いに違いない」と、妙な嗅覚でわかりました。この人は賢いだけではなく、バランス感覚がしっかりしている、と直感したわけです。
 世の中にはせっかく偏差値が高く、高等教育を受けているにもかかわらず、なんでそうなってしまうんだろう? と思うような頭の悪さを持った人が少なからずいるのですが、この石倉さんは、物事を捉える道筋がしっかりしている。ちゃんとした経路に沿って物事を考える人だと判断できました。
 しかし、世の中とは寂しいもので、偏差値が低く、学歴のない私には、この偏差値が高く学歴もある石倉さんの書いていることを完全に把握することは、困難を極める作業なわけです。
 十時間以上に及ぶレクチャーの結果、不完全ながらも漸く全体像をぼんやりと見えるようになりまして、そして、最初に直感した判断が間違っていなかったと確信しました。この人は頭が良くて面白い。
  
 難しいことをわかりやすく説明する能力と、説明するのに上手い例を提出する能力にも長けている。そして何より、自分の論点の隙間を丁寧に細かく埋めている。
 立論から視点から行程から何から何まで、私がネットで見てきたえらい数の有象無象の中で三本の指に入るジェネラリストタイプの天才です。褒め殺しもするっちゅーねん。
  
 ということで、その賢さに非常に感心したものですから、それぞれについて辿るように感想や思ったことなどを書いてみようかと思います。
 mixi疲れと友達の友達
 私は友達などいませんからmixiに参加したことなどないのですが、見たことはあるので、なんとなくはわかります。
 石倉さんの書いていることについては実際にリンク先に行っていただくとして、そのうえで豪快に一言で説明すると、重要な部分は、いわゆるペルソナです。
 次の行からは、直接は石倉さんの主張とは異なりますが、ペルソナについて。
 対人関係というのは、相手について一つづつ違うものであり、その一つ一つ全てが自分の「人格」であり、その総体というか一つ一つをまとめた複合体が大枠での「自分」であって、それは常に状況に応じて、そのうちの一つとしてしか表に出ないわけです。
 それを、表面上は対人となる他者がいない、つまりは、独りで(そのときの)自己と向き合っている「自分」というものを、つい「本当の自分」などと勘違いしてしまい、果ては、他者に向かうときの「自分」との差異に悩んで「本当の自分を探しに行く」と旅に出てしまうナイーブな人もいるわけです。
  
 Aさんと会っている時の自分と、Bさんと会っている時の自分とで、人はペルソナを変えて対応するわけです。それは恥ずかしいことではなく、礼儀でもあります。自分の親や家族に対して会社の関係先に対するように接しては他人行儀だし、逆に会社の取引相手に家族のように接するのは馴れ馴れしい。
 ペルソナを使い分けることは大人の礼儀だとはわかっていても、でも、恥ずかしいときもある。それは、AさんとBさんと自分が同じ場で会ってしまうケースです。学生の時分に、うっかり親と一緒のところを友達と出くわしてしまった感覚と言いましょうか。

 先日、ウチの近所のコンドーさんのおばあさんが亡くなりました。
 その葬儀において、喪主の席に、見知らぬオッサンが座ってるんです。ご近所さんのはずなのに。で、近所の人たちで、「あの知らないオッサンは誰だろう? 喪主のところに居るぞ。コンドーさんちのご主人は?」という話題になったわけです。謎の喪主の隣にコンドーさんの奥さんは座ってるのに、コンドーさんがいない。
 実はコンドーさん、会社にはカツラをつけて出勤し、帰り道のどっかでカツラを外してたみたいなの。だから、近所の人はハゲのコンドーさんしか知らないわけですよ。なのに、葬式という場によって、ヅラを常につけている会社の人たちと、ハゲしかしらない近所の人たちが一堂に会したために、不可思議なことが起きてしまったわけです。コンドーさんは、もちろん、会社のヅラを優先した。
 その結果として「会社ではヅラをかぶっているコンドーさん」という認識をされているだろうなと思いつつ近所の人と付き合うペルソナへと否応なく変容したわけです。
  
 人間は、自らの「同一性」に疑いを持つと、非常に壊れやすくなってしまうので、同一性を保持しようと努力します。整合性を維持する中での負荷がかかったりします。
 それが整合性を無視した形で強制的に、複数のペルソナが融合して新たなペルソナを要請するシチュエーションがあると、そこの差異に恥ずかしさを感じてしまうわけですね。
 たいていのことは、気恥ずかしさもお互い様、と気付いていない振りをしてあげるのが、社会互助会の大人のマナーです。
  
 で、このペルソナ論なのですが、ペルソナというものが使い分けるものであるとするならば、そのペルソナを選ぶ、一段階上の「主体」があるのではないか? ということになります。それを「本当の自分」と呼べるのではなかろうか? と。
 私は本を読まないので、このあたりのペルソナ論について、ユング他がどのような扱いをしているのは知らないんですけどね。誰も何も考えていないはずはないんで、何らかの回答とされているものがあるのでしょう。それが納得できるものかどうかは別にして。
  
 明日は、残りの二つも。