自己同一性と非連続な私

  
 昨日から引き続き、石倉さんのサイトの感想なんかを。
 ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる
 ↑のリンク先は若干ですが昨日のよりは難しくなってます。しかし、面白いので是非とも読んでみてください。力作であり傑作です。もっとも、全人口の5%以下のための知的遊戯だと思われますが。
 この「主体」が実は存在しなかった、という事態があり得る以上、主体が始めにあってテクストが生成されるのではなく、生成物に対して遡行的に想定されるのが主体ですという部分と、「少なくとも一人、意味を知っている者がいる、とわたしが想定する」の部分は、おそらく書いていて、というか、詰める作業をしていて、さぞや楽しかっただろうと。頭の中だけで出来る娯楽としては最高峰のものでしょうね。
 で、この十月十五日付けのテクストに関しては、ほぼ意味と意図は拾うことが出来ました。
  
 webのフラットさによる暴力はweb自体によって去勢されるという微かな希望
 ↑の十六日付がね、偏差値と学歴の差なのか、どうしても拾いきることが出来ないわけですよ。石倉さん自体、自分でも完全には把握し切れていないのではないかと疑ってしまうぐらいです。しかし、面白いので是非とも読んでみてください。力作であり傑作です。もっとも、全人口の1%以下の知的遊戯だと思われますが。
 具体的にどの部分がわからないかというと、そして過程が「今はない過去」となったとき、それ自体としては存在しない過去が、ないものとして機能する、という(極めて「人間的」な)状況が作り出されるのです。の部分です。
  
 石倉さんは、具体から抽象へ移すプロセスで、捨象するものとして「肉体」をあげているのですが、上の引用部分以下では、それが「時間軸による自己同一性の揺れ」に変化しているように見えるのです。これは、魂と肉体(ゴーストとボディ)という例が生む誤解ですか? 例えであって本当の身体ではないという。
 わかっていないままに話を進めても誤解や無駄も多いでしょうが敢えて進めます。
 この人間はこうである、という「同一性」においての「身体」を考える場合、背中のアザがどれだけ本人のコンプレックスであっても、データ化されないということでしょうか? こっちはおそらく違うと思ってますが。
 例えば、属性としての「既婚」という場合、結婚をしているわけですが、それまでにいくつもの恋愛や失恋があったでしょうし、結婚自体にも障碍などがあったかもしれないけれども、記載されるのは「既婚」だけが表示される、ということを指しているのでしょうか?
  
 フロイトの作られた記憶の話とアシモフの話から、おそらく後者であると思うわけですので、そちらで話を整理します。
 時間軸による自己同一性の揺れ、もしくは対人軸による自己同一性の揺れというものは、これは不断に誰にでも起こり続けている現象であって、一秒後には「一秒前の自分と自分が思っている他者」に過ぎなくなる、ということになります。故に時間軸が絶え間なく進む以上は、同一性は常に変わり不完全であるということになりましょう。対面する相手によって、同一性は常に変わり不完全であるということになりましょう。
 しかし問題は、その「完全」と「不完全」の差異が、どれだけ意味あるいは価値があるのか? ということです。
 差異から生まれるノイズが、どれだけのチャフとして機能するのかというと、希望として縋るには余りにも心許なく思えるわけです。
  
 私は、デレク・パーフィットによる、クーンの串団子のようなパラダイム論的人格論を俄かには信じられないので、緩やかに連なるストーリーテリングビーイングとしての「同一性」を信奉しているわけですし、また、世の中もそれを前提としています。
 その世界において、不完全さによる差異が生み出すノイズなど、地上波アナログテレビのゴーストほどにも影響を与えないでしょう。と、確信しています。
  
 例の被害者の彼女は、顔を変えるか、名前を変えるか、海外に出るかなどの、意図的にかなりの大きなノイズを出すしかないと思います。
 大きなノイズを出したとしても、全てが言語経済の統制下におかれた現代で、これまでの全てを抹消して「新しい誰か」として生きるのは、実質的に「誰でもない人」として生きるのと、ほとんど同義です。
 新しい「世界」で、新しい彼女として生きるには、経歴も保証もないのですから、単なる出直しとは比べ物にならないハンディを背負うことになります。想像するだけで、たまらない、痛ましい話です。
 石倉さんは、おそらく、彼女に対する希望を表明するためだけに、このような結論にしたのではないかという気がして仕方がないわけです。
 そして、そんな結論にしたところで、彼女が実際にそれで救われるわけでもないですし、おそらくネットも見たくないでしょうから、その希望の表明が届くこともないのでしょう。
 ただ石倉さんが、その彼女の遥か向こう側に自分の姿を認めているのならば、あるいは、さらに石倉さんの向こうに、あの時に行動しなかったその前の私がいるならば、あまりにもわずかな希望にも残っていて欲しいものだとは思うわけです。
  
 私の愚かなお袋は言いました。
 「ただみんなに裸を見られただけじゃない」
 それってそれだけでもうしっかり充分ですから、という気がしなくもないのですが、案外そっちのほうが解決としては早いのかもしれません。たとえそれが微かな光でも。
  
  
 まぁ、ただ、読み飛ばすことなく意味を掴んで読んだ奴が少なからずいると、それが伝わればいいなというだけの、大した内容のないテクストで恐縮ですが、面白かったです。苦しかったけどな。つーか、誰か完全に把握できた奴はいるのか?
 ただ、石倉さんがどう考えているのかも含め、人間の主体の在り処は、脳にしかないのか、という点についてはまた別の機会に書きたいとは思っています。