連続する「私」と連続していない「私」

  
 id:sho_ta (翔太)さんから、どうしても理解できない、という私的な指摘メッセージがきましたので、続けて「人格」「私」「自分」について。
  
 一昨日のペルソナにおいて、私は以下のように書きました。
 ペルソナというものが使い分けるものであるとするならば、そのペルソナを選ぶ、一段階上の「主体」があるのではないか? ということになります。それを「本当の自分」と呼べるのではなかろうか? と。
 「ペルソナというものが使い分けるものであるとするならば」という前提によるものであって、私は「ペルソナ論自体が行き詰まりを見せていて、別の切り取り方で論じたほうがわかりやすい段階まできているような気がし」ていますので、ペルソナ論で語られているときには、あえてその切り取り方をしているとご理解ください。
  
 まず、人間が「人格」と呼べるものを持っていると仮定しまして、私の「私」という「人格」は何故に「私」であると思えるのかというと、そこには「私は私である」という「同一性」や「連続性」があると見做されているからです。
 今の「私」は、さっきの「私」と、極めて近しいもしくは同一であり連続しているものだと認識している。その根拠は何があるかというと、主観と客観による経験則しかなく、なんら「同一性」や「連続性」を保証するものなどありません。
 私の「肉体」というものが連続しているから同一性を担保している、と翔太さんに言われましたが、これはもちろん、事故で手足が無くなったり、人工の物と入れ替えられたとしても、やはり「私は私だ」と事故後でも認識するでしょうから、根拠にはなりえません。
  
 私たちは普通、自分が生まれてから死ぬまで、自分の「私」というものが連続して存在していることを前提としています。これを前提にしないと、人間のあらゆる活動に支障をきたしてしまうからです。
 例えば、殺人事件が起きたときに明らかに犯人である男を実行犯で逮捕したところ、その男が「さっき殺人を犯した僕と、今此処にいる僕が同一であるとする根拠はないし、連続していないから無関係だ」と言われることになります。つまり「連続性」を認めず、別の「人格」であるとするならば、まず「責任理論」が崩壊します。
 さらに、働きたくないと思っている自分と、その労働の結果として貰った給与から家賃を払わなくてはならない自分や老後の自分と「連続性」がないならば、誰も働かなくなるでしょう。もっとも、賃貸住宅に住んでいた自分と家賃を払う自分は別の「人格」だから家賃を払わないと言うかも知れませんが。とまれ老後の自分が困らないように心配をするのは、老後の「私」も「私」に他ならないと考えているからです。
 つまり、社会は全て「同一性」や「連続性」を前提にまわっています。
  
 それに対して、「人格」というのはそれ自体が存在するのではなく、物理状態や心理状態によって、表面に現れているだけに過ぎない、という説をデレク・パーフィットという学者先生が唱えています。
 それはつまり、物理状態や心理状態が変われば、「人格」は連続的にも断続的にも変化をし、その変化により「人格」は「連続性」も「同一性」もなく急激に変化し得るということになります。
 この場合の変化するというのは、愛したばかりの頃に熱烈なラヴレターを書いている時点と、心底憎んで別れを切り出そうとしている時点での、感情や「人格」の緩やかな連続する変化ということではなくて、断絶を伴う非連続的な非同一的な変化のことを言います。
 「人格」に、「連続性」や「同一性」があると見做していたことが間違いであり、それを前提に必然性はないのではないかという考え方です。
  
 さっきの私と今此処の私が、同じ「私」であるという根拠がなく、それはたとえ一秒前でも0.1秒前でも根拠がないことは同じである以上、常に完全なる非連続である、という考え方もあります。
 これは、時間とは常に単位と無関係に進み続け、一瞬として同じ状態で止まらない以上、一瞬前の自分は今の自分とは別人であるという主張になります。無茶苦茶なことを言っているようですが、これも一つの見解です。
 たとえこのような見解を取ったとしても、「『私』というものに『同一性』や『連続性』が実際になくても、あるとした場合の行動を選択すればいいんじゃね?」という生活を送れば、それなりに円滑に日々は過ぎていくのです。でも結局は「普通」に生活を送るためには「実際はなかろうが」『連続性』を前提とするしかないわけです。便宜上。
 全てが刹那的なバラバラな状態で一瞬ごとに捨てられていく「人格」になるわけですが、これはもはや「人間に人格などない」という主張と同義であると見做してもいいのではないかと、私は思います。
  
 さて、さっきの私と今此処の私が、なんらかの「同一性」や「連続性」を持っているという根拠は、見つかっていません。
 しかし、実際には「連続性」はないと判断し、本当に「連続性」と無関係な行動を取る場合、まず社会生活は送れません。一部の分裂症患者を除けば、言語を介して生活する以上は「連続性」を必要とされるわけです。
  
 では、その「連続性」が存在すると仮定した場合、今は見つかっていないその「連続性」や「同一性」を担保する「何か」が存在するはずです。その「何か」がなければ、さっきの私と今此処の私を共通する「連続性」も「同一性」もないからです。
 その「連続性」や「同一性」を担保する「何か」を、私は「核(コア)」と呼びました。その「核」をイメージするとき、ペルソナ論で切り取られる、時間軸や対人ごとに揺れるペルソナ人格の中に、共通する「何か」を求めるわけです。
 この「核」は、全く不動不変のものではなく、「連続性」や「同一性」を担保しながら緩やかに変っていくものです。
 先ほどの例で言えば、愛したばかりの頃に熱烈なラヴレターを書いている時点と、心底憎んで別れを切り出そうとしている時点では、断絶があるわけではなく、時間軸や恋人や他の対人により、緩やかに変化していったものであるわけです。
 誤解のないように言いますと、翔太さんがよく「今晩、泊まっていきなよ」と言って女性を家に誘い込んでおきながら、やることやったら「帰れ!」と灰皿を投げつけますが、これは別に断絶して非連続であるわけではなく、既にコトの最中から持続して計画している常套手段であり、連続した上での行為です。客観では非統一性に見えますが、主観では連続して同一になります。
  
 「連続性」が存在すると仮定した場合に存在するはずの「連続性」や「同一性」を担保する「何か」を「核」と呼び、それは何だろうかと私が勝手に推測したのが旧弊の感はありますが、やはり「自分に向き合う自分」になるのではないか、ということです。
 それは時間軸や対人において揺れ動くペルソナ人格において、完全排除が比較的されにくいからです。「私」がその場にいないときの「私」ということが、ほぼ起こり得ないからです。
 この「自分に向き合う自分」というのを、ペルソナ論で切り取るならば「冷静に突っ込む『内心』」として、ペルソナに内在されているのではないか、ということを言ったわけです。
 「自分に向き合う自分」は緩やかに変質するように、その「核」も緩やかに変質する連続するものです。
  
 「連続性」や「同一性」を担保する「何か」の「何か」が、具体的に何か存在しているかどうかもわからない段階で、何かがあるはずと考えることに翔太さんは疑問を持っていましたが、それは前提が「その『連続性』が存在すると仮定した場合」だからです。それは私は、デレク・パーフィットによる、クーンの串団子のようなパラダイム論的人格論を俄かには信じられないので、緩やかに連なるストーリーテリングビーイングとしての「同一性」を信奉していると書いたように、信奉に過ぎません。
 ただ、経験則から「連続性」を前提としないと「人間」が成り立たないからという理由です。
 厳密には例として不適切ですが、万有引力の法則をイメージするとわかりやすいと思います。とはいえ、私自身が万有引力の法則を理解していないんですが、太陽と地球はそれぞれ引っ張り合っています。遠くに離れたものが何の媒介もなく影響するということは考えられなかったため、宇宙空間には「エーテル」というものがあるとされました。力や光が伝わる以上は、それを伝える媒質があり、それがエーテルであると仮定されたわけです。
 ところがそのエーテル物質などというものはないという証拠と思われる実験結果が出て、現在のところは空間それ自体が媒介する存在だと考えられています。考えられているだけです。厳密に言えば不確かで不明なのです。つまり現在のパラダイムの仮説です。たぶん。
 空間がエーテルとして機能する根拠が不確か?であるとして、エーテルの存在がない以上は万有引力は存在しない、ということにはならないわけです。まぁ、万有引力と私の「連続性」では、客観的な追試可能性から見て不適当な例ではあるんですが。
  
 パーフィット的な非連続的な人格論ですが、私にはどうしても俄かには信じられないところがあって、これまた適切な例とはいえませんが、突然キレる人の場合など、その瞬間は脳内麻薬物質の物理的変化によって、非連続であるかのように変化することはあると思うのですが、そのあとまた元の「私」に近く戻るのであれば、やはりどこかしらに共通性は残されているのではないかと思うわけです。
 ただ、パーフィットの提起するパラダイム自体を私が把握できていないので、これに関しては、自分のパラダイム内で想像するしかなく、なんともなりません。中卒の限界ですね。
  
 また蛇足で話は少しずれますが、最近は、インテリの人たちでは「大学教授である私と著作を書いている私とウェブログを書いている私と今のこの私を全て混同しているようだね」的な発言が流行っているようだ。いや住んでる世界が違うからよく知らないけど。id:MrJohnnyさんの吹風日記を拝見すると、内田樹村上春樹もニュアンスは微妙に違いながら同じような発言をしているっぽい。
 これはペルソナ人格を使い分けているという意味で言っているのだと思うのだけれども、いくらなんでも、例えば何か犯罪を犯した場合に内田樹が「あのとき人を殺した『私』は多重人格の一つに過ぎなく、今の『私』やホームページの『私』とは別である」とは言わないであろうし、村上春樹も「僕は原則的に、あのとき人を殺した村上春樹と、村上春樹という個人を完全に二つに分けて物事を考えることにしている。つまり僕にとってあのとき人を殺した村上春樹は一つの仮説である。仮説は僕のなかにあるが、僕自身ではない。僕はそう考えている」とは言わないだろう。たぶん。
 それは「一貫された『人格』があることと見做そう」というルールに従った、というよりは、やはり何らかの「連続性」を感じるからこそ、納得して従うのではなかろうか? と思うわけですが、そうではないと言われるんですかね? それは私にはポストモダニズムが過ぎるような気がします。
 「別人格を演じる」には、演じる「人格」に相当するものなく演じることが出来るわけがないわけで、承知の上でのロールプレイングという意味で使っているのだと思うけれども。
  
 これで多少は翔太さんの理解の一助になりましょうか? 最後の蛇足は逆効果かもしれませんが。