コミュニケーションから形成される「私」は洗脳からしか生まれない「私」

  
 NHKでやっていた「サイボーグ技術が人類を変える」の終わり十五分程度だけ見ました。面白うございました。
 ヴァルネラビリティーがほとばしる立花隆もさることながら、その紹介される技術がもう攻殻機動隊の世界そのままで、とにかく面白い。
 五本の指を思い通りに動かせる義手とかはそのまんま義体化にまで一直線だし、脳の海馬をスライスしてチップ化することで「記憶」を「記録」出来るようにする海馬チップなんて電脳化ですか?
 そして、マウスの脳に電極を挿してリモコン状態で自由に操作できる技術はゴーストハックぢゃないか。凄い。極刑だぞ、おい。
 しかもこれは、マウスをロボット化して機械的に無理矢理に操縦するというのではなく、左に行かせたいときには左に行くように指示する電極を刺激し、その通りにしたときには快楽神経を刺激することにより、あたかもマウスの主観としては、自らが選択して、自らの選択通りの行動を取ったことに満足するという自己認識がある可能性があるわけです。マウスの自己認識っていうのも変ですが、これは凄いことだよ。
  
 さて、私は「人間」というのは、他者との関係性において初めて生まれるものだという理解をしています。
 たとえば、今私たちが「人間」と理解している生命体が、ひょんな現象からひょっこり他者の存在しない空間に発生し、その生命体が他者と何の関係性も持たぬままに一生を終えたとしたら、それは「人間」であるのか?
 「人間」というのは、その「個人」で全き一存在としてあるように思えます。唯物論的に考えれば、その通りです。主観的に考えれば、その生命体は、自らの存在の有性に疑問は持たなかったでしょう。私は此処に居るではないか、と。物質的にも存在してるじゃないか、と。
 しかし、そんなことは私たちがその生命体を、仮定においてであれ意識するから存在するのであって、意識しなければそれは存在しないのと等しいのです。どうも説明が悪いな。
  
 もうちょっと卑近に言えば、「人間」という概念は社会なくしては成り立たない、ということです。
 他者との関係性を持って、その複合的な関係性を構築する「私」というのを切り取って「個人」と理解することは出来るけれども、その関係性を排除した上での「個人」や「私」などというのは存在しない。余計にわかりにくいかな?
 だから先のブログに書いている「私」というのは、その関係性で繋がっている「私」という状態を切り取った提示の仕方であって、最初から「私」というものがアプリオリに存在しているわけではありません。
 逆にいえば他者から他者として認識されて初めて「私」というのは生まれるわけです。それは相互補完的あって、その他者も、私を始めとする他者に認識されて初めて発生するものです。つまりは、他者というのが存在し、その他者から認識されるから「私」というのが生まれるのではなく、相互的に関係性が生じた瞬間に「人間」も生まれるわけです。つまり人間とは「関係性」に他なりません。
 もちろんこれは一対一の関係のみに限ることではなく、「私」に関係する全ての他者との関係性の複合が総体となって「私」を形成するわけです。
 つまり、私の言うところの「私」とは、個人として完全に独立している存在ではなく、関係性の中に繋がれている状態をそのまま切り取った「主体らしく見えるもの」であるわけです。
 関係性のないところに人間は形成されません。というのが、私の「世界」の見方です。
  
 ということで、関係性を構築するのがコミュニケーションとなるわけですが、コミュニケーションというと誤解が生じやすいです。
 というのは、コミュニケーションをとるには、生まれる際の事故により、植物状態で生まれた子供はコミュニケーションが取れず、ということは「人間」ではないと判断されるのかというと、それは間違いです。
 母親から生まれているという行為で既にコミュニケーション(関係性)は発生していますし、また、母親や看護婦から介護を受けているという行為でもコミュニケーションは成立しています。
 それが「人間」を、いわゆる「人間性」や「理性」や「人格」に見るのではなく、「人間と見做そう」という物語からしか、人間であるということを保証できないという「人間理解」と繋がっています。
 ならば、犬とか物とかに対して、それを人間と思いなして関係性を構築する人がいたならば、その犬や物は「人間」と成り得るのかという疑問も発生します。
  
 一番確かだと思われているコミュニケーションは、対人的コミュニケーションです。メールや電話や手紙やテレビなどの媒介を通すことなく、同じ時空間を一緒に過ごし、視覚や聴覚や嗅覚や、場合によっては触覚などから直に相手の存在を確認するコミュニケーションです。
 これは、相手の雰囲気や立ち振る舞いなど、他のコミュニケーションでは伝わりにくいような部分まで、情報として得ることが出来る、最も情報量の多いコミュニケーションになります。
 しかしこの対面のコミュニケーションをもってして、どこまで深いコミュニケーションを取ったとしても、相手の全てを理解できることはありません。他者の本質ではなく、あくまでも他者の表象を細かく得ること以上は出来ないのです。
 コミュニケーションが「相手との相互理解」を求めるものならば、コミュニケーションは常に不完全に成らざるを得ないわけです。
 コミュニケーションは常に不完全であり、不完全であっても、相手を「人間だと思い見做す」ことで、社会は成立するのです。逆に言えば、他者から人間だと見做されない限り、人間ではないのです。そんなことを昔、名古屋大学の院生に「人権」と絡めて言われたことを思い出しました。偏差値の高い高学歴インテリは羨ましい。その「人権」についてはまた後日に。
  
 コミュニケーションが存在しないと、人間、つまりは「私」や「自我」や「人格」と言われるものも存在しないわけですが、ではコミュニケーションはというと、実は常に洗脳的です。
 逆に言えば、人間というものは全て「洗脳」により「自我」が形成されるものであって、その洗脳とは、母語を獲得する瞬間から始まります。
 つまり言語的に思考するということは、常に洗脳の影響下にあるわけです。
 「私」が何かを選択するときには、それを「私」が主体的に選択しているように思えても、全ての「選択」は「選択する」のではなく「選択させられている」に過ぎないのです。
 そのことからも「人間」が、その個体が本質的に固有する「自我」とか「人格」があるのではない、ということがわかります。
  
 私たちが、常に自らが主体的に選択して行動したりしているように思えても、それは必ず「他」からの洗脳で「選択させられている」といえるわけですから、操作するという「主体的意志」の存在がないだけで、実は私たちはリモコンマウスと大差のない存在なのかもしれません。
  
 なんか、断片的な思考の書き殴りで、繋がりも纏まりもない、理解し難い文章になっていますが、が、が、この手の議題を深く考えようとすればするほど、認識がどーとか脳がどーとか表象がどーとかそーいう世界に無限に後退していく気がしてならないわけで、どーにも私には向いていないようで、嫌になっているので、もうしばらくは考えないようにしたいです。