子供の命名と表現の自由について

  
 中川翔子。しょこたん。本名は中川しようこ。
 本名が「しょうこ」ではなくて「しようこ」となっているのは、本人がテレビ等でネタにしていて、母親が「薔子」という漢字で「しょうこ」と読ませたかったのに、「薔」の字が人名に使える漢字に含まれていなかったため、怒って平仮名で書き殴ったために、「ょ」が「よ」で受理されたからだということだ。
 怒って書き殴る母親も母親ならば、いくら相手が怒ってるからといって「しようこ」で受理する役所もどうかしている。
  
 今年、どっかの愚かな国語教師が、自分の子供に「矜持」で「きょうじ」と名付けようとしたところ、「矜」が人名に使える漢字に入っていないという理由で受理されず、精神的苦痛を受けたとして起こした訴訟が棄却された。
 この莫迦「親が子に名前を付ける権利は表現の自由の最たるもの。それを認めず、人名に使える漢字も制限するのは憲法違反」という主張をしていた。
  
 人名に使える漢字を国が制限するというのは議論の余地があるわけですが、国によっては、聖書に出てくる名前などのリストの中から選ばせるだけというところもあるわけで、ジョン(ヨハネ)やポール(パウロ)だらけの国よりも日本は比較的に自由度は高い。というか、高過ぎて阿呆な名前を付ける親が多過ぎるぐらいだ。
 漢字というのは、アルファベットと違って表意文字なので、読み方だけではなく意味を込められるので、自由度だけではなく、思いも込めやすい。名前を付けるには極めて恵まれている。
 しかし、比較的に恵まれているからといって、だから不都合があっても我慢するという話ではない。不合理な不都合であれば規則を改定すれば良いだけの話だからだ。
 そもそも常用漢字であれ、国家が使える漢字を制限するというのは、基本的に大きなお世話であって、読めなきゃ辞書を引くし、読まれなきゃ平仮名で書くようになる。原則的に公権力が口を出すようなことではない。
  
 しかし、この「矜持」になり損ねた子供の阿呆な父親は「親が子に名前を付ける権利は表現の自由の最たるもの。それを認めず、人名に使える漢字も制限するのは憲法違反」と言っているわけです。
 「表現の自由」という権利は、近代の個人主義の中から生まれるものです。
 「表現が自由な状態である」ということは、近代の個人主義ではなくとも、「王様の気まぐれ」だろうが「殿様の優しさ」だろうが「首領様の機嫌」だろうが「世間の寛容さ」だろうが、自由である状態は有り得る。
 しかし、「表現の自由という権利」は、近代でしか有り得ない。個人主義などをともなう近代の中でしか有り得ない。近代というルールのみで通用する「権利」に過ぎないわけです。
  
 近代の個人主義においては「個人」が優先されます。
 親には子供に対する保護が義務付けられていますが、原則、親子の関係であろうとも「本人」「個人」の考えが優先されます。それが個人主義です。
 翻ってこのイカレた親父は「親が子に名前を付ける権利は表現の自由の最たるもの」などと言ってます。言っちゃってます。
 子供を自分の所有物とでも思ってるんでしょうか?
  
 子供という「他人」の名前を勝手につける行為が、権利の最たるものだと呑気に信じられてしまう人間が、個人の権利を主張しないで欲しい。
 この親父が本気で命名を「表現の自由の最たるもの」と思うのであれば、なおかつ、最低限の知能を有していれば、自分の任意改名の権利を主張すべきであって、自分の名前の届出制を提唱するはず。
 自分と自分の子供という、自己と他者の区別もつかない、子供を自分の所有物とでも勘違いしているかに見える人間が、個人の権利を主張するのは滑稽に過ぎる。
 表現の自由を言うのであれば、親という他者が勝手に付けた名前など簡単に改名できるようにするべきであって、「親が子に名前を付ける権利」なんぞ、表現の自由から導き出されるはずがない。
 さらに言えば、名前だけではなく、苗字も個人が自由に付けることだって許されるべきだ。名前において「表現の自由」を言うならば、当然ここまで考えるべき問題であり、国語の教師でありながら斯くも頭が悪いのかと驚かざるを得ない。
 下手をしたら自分の名字を継いで欲しいし、自分の付けたい名前を、自分が死んだ以降も息子の名前として使わせようという人間が、どの面下げて個人主義の概念である「表現の自由」を言うか。それも他人の名前で。
 子供の名前は、親の勝手な自己主張の場ではない。
  
 子供にDQNな名前を付けたがる親も、子供を自分の所有物と勘違いしている点で同じである。
 昔、バウで変読というコーナーがあり、ヒムロックの「氷室京介」を「フリーザーきょうすけ」や「吹雪じゅん」を「ブリザードじゅん」、「轟二郎」を「さんりんしゃじろう」などとわざと間違えて読むというものだが、それを今は子供の本名でやってしまっている。
 子供を自分の所有物と勘違いしている莫迦親のせいで、子供は一生「私の親は莫迦です」という自己紹介をし続けなくてはならない。