「誰が書いているか」で判断するのではなく「何が書かれているか」

  
 よく「『誰が書いたか』で判断するのではなく『何が書かれているか』で判断すべきだ」みたいなことが言われます。
 つまり、作者ではなく、内容で判断せよ、ということです。
 これは明らかに正論です。否定のしようも無い正論です。正論過ぎて、青臭い書生論の正論です。つまりは、正しいけれども糞の役にも立たない。むしろ邪魔なだけの正論です。
  
 「誰が書いているか」派と「何が書かれているか」派、という区分けが出来るとするならば、これは比重の問題であって、オールオアナッシングではないのですが、どうも、「何が書かれているか」派のほうが、「誰が書いたかは関係ない、問題は中身だ」的な物言いが多いような気がします。
 「誰が書いているか」派と自己分析している人間で、さすがに「誰が書いたかが全てだ。内容なんて関係ない」という人はいないでしょう。「何が書かれているか」派であっても、完全に作者から切り取るということは考えていないとは思うんです。でも、作者から作品を引き離すことは不可能というか、完全な無意味になるので、通常はされないわけですが、作品から作者を引き離すことは可能ではあるために、まれに青臭い書生論の「作品の内容だけで判断する」という人が、その青臭い理想が故に声高らかに主張しちゃったりします。
 書かれた内容が問われるのは、当たり前である分、「何が書かれているか」を力を込めて主張する必要もないように思えます。
 「誰が書いているか」だけを強く主張する人っているんですかね? 「内容なんかは二の次で、誰が書いてるかが重要だ!」なんてのは、信仰告白のネタでしょ?
 誰が書いたかによって、評価に下駄が履かされることがあっても、下駄だけで評価されるということは、おそらくないでしょう。
  
 で、「誰が書いているか」というのは、ある種の選別の役割を果たすわけです。
 この人が書いていることならば、ある程度の水準を保っていたり、あるいは凄い掘り出し物が期待できる、という先入観や偏見を持っているわけです。先入観や偏見というのは、それは知恵ですから、非常に役に立ちます。
 もちろんそれが適正な判断の足を引っ張ることもありますが、知恵によって得られる利便の方が、比較にならないほどの恩恵を施してくれるわけですから、その知恵を使わない手はありません。
 世の中には無限の表現物があり、人間が一生のうちに触れる情報の量などたかが知れている。そんな無限のものの全ての内容をいちいち全て検証など出来るわけが無く、この人が書いていることなら「信用できるはず」「面白いはず」と優先的に取り入れ、基本的に信頼するというのは、有限たる人間の知恵です。なにしろ検証すらも無限ですからキリが無い。それで下駄を履いたとしても、それは下駄も含めて楽しめているわけです。
  
 また、作者と切り離してしまったら、意味の無くなる表現もあります。
 例えば、マラソン人の円谷幸吉さん。円谷選手の大傑作である遺書の『美味しうございました』
 これはノーベル文学賞作家の川端康成が大絶賛した美文であるわけですが、作者から切り離せば、食べ物のお礼と関係者の人名の列挙だけで、これほど多くの人の心に響くものはないはずです。
 あるいは無学な農婦によるひらがなとカタカナだけの稚拙な文章が、涙が出るほど魂を揺さぶることがあるのは、その背後に作者の存在があるからに他ならない。アルジャーノンのお墓に花束をあげてください。
  
 その一方で、アマデウスモーツアルトが、クラスメイトにウンコ喰わせてバックドロップしていたとしても、私はやはりモーツアルトの音楽は好きであり、誰かに「モーツァルトはスカトロ趣味だよ?」と言われても、聴き続けるでしょう。
 これはおそらく、モーツアルトの芸術性が、その作者の人格を凌駕しているからではないかと思います。
  
 たとえば、私は一青窈を聴いて、そのファザコンキャラという新しさや、音楽が気に入って聴いていて、それが高じて、ライブのDVDを二枚買いました。これこれなんですけどね。
 一枚目の方はまぁ、良かったんですよ。二枚目を見たら、なんか、えーーーーーーーっ、なんだかな。どうなのよ?
 三十路の女性が、ミニスカートのふりふりで可愛子ぶりながら、楽しそうにはじけているんですわ。それはそれでファンには嬉しいんでしょうが、私にはちょっとこれキツいわ。なんか見てはいけないものを見てしまった感じで。
 すごくキャピキャピしながら、ヲタをとらえて放しませんよ、みたいな無理な頑張りをしているように感じられて、そういう歌手じゃないんじゃないの? といった印象を抱かされるんですね。過剰に表情をつけて歌っている姿も松野明美にしか見えない。
 ファンの間では評価が高いのか、amazonレビューでもかなりの高評価なのですが、私は、見なきゃ良かった。見なければ音楽も素直に聴けたのに、という感想です。クールさに惹かれた女性がメイドカフェでバイトしている姿を見てしまった、みたいな。
 私にとって、一青窈の萌えキャラは、キツ過ぎて、音楽性にしっかりとしたダメージを与えているわけです。