羞恥心だらけの水泳大会

  
 恥ずかしいといえば、こんな悪夢のような思い出がありました。
  
 私が中学生の頃です。私は泳げなかった。水泳は苦手でした。
 私は今もって満足に泳ぐことができないのですが、日常生活において困ったことなど一度もありません。
 しかし、学生時代は非常に困りました。水泳の授業があるからです。
 なんとなく本末転倒な気がしなくもありませんが、仕方の無いことです。
 水泳の授業は、まぁ、泳げなくて辛いけれども、泳げないなりに時間が過ぎればいいんですよ。レベルに合わせて分かれて練習しているので、泳げない私の周辺には泳げない奴しかいませんから。そんなに恥ずかしくは無い。
  
 しかし、なんてことをしでかしやがるのでしょう、学校行事で『水泳大会』なる催しがあるのですよ。
 体育祭や文化祭ほどの大きなイベントではなく、外部から父兄や来賓などの客もなく、完全に学校内部の極めて地味なイベントなのですが、全学年合同で「水泳大会」があるのです。早い話が全校生徒の前で「泳げない」わけです。
 女子は良いですよ。みんな「生理痛で」と言えば徴兵逃れできるんですから。
  
 私はもう、何日も前から陰鬱ですよ。嫌で嫌で仕方がなかった。
 泳げなかろうがなんだろうが、全校生徒の前で溺れる姿を晒すわけです。
 しかも、会場アナウンスは極めて醜悪な偽善的放送で「瀧澤くんが、頑張って泳いでいます。みんなで応援してあげましょう」とかやることが目に見えているわけですよ。絶対に言われるんだ。晒し者だ。こういうことを許していて良いのか?
 前日や前々日などは、本当に「ハルマゲドンが来て、この世が滅びないかな」なんて期待をしていました。
  
 なんとか怪我しないかと、家の階段から飛び降りたりしました。
 音に驚いて両親が駆けつけてきたのですが、私は特に怪我もせず「大丈夫。階段でスベっただけ」と答えました。
 母親は全てを察したように「頑張って恥かいてきなさい」と言いました。
  
 呪われた当日になりました。私は朝からどんよりとした気分で家を出ました。
 くだらないイベントは始まり、時は刻一刻と私の出場時間に近づいてきます。そして私の順番が来ました。死刑台に上ります。
 スタート台で腹を括りました。頑張って恥をかいてくるか、と。
 スタートの飛込みで腹を打ち、掻けども蹴れどもなかなか前に進まず、他の選手に引き離されながら、溺れるような息継ぎで前に進みます。
 私が半分ぐらいまで泳いだ頃に、最初の生徒がゴールして、それから間もなく次々と他の生徒もゴールしていくわけです。きっとみんなに見られて笑われてるな。まぁいいか。恥をかこう。
 そして、悪魔の煽動が来るわけですよ。
 「瀧澤くんが頑張っています。みんなで応援してあげましょう。頑張れ! 頑張れ! 頑張れ!」
 これね、覚悟してはいたんですが、やっぱり心が折れるんですよ。
 もうね、私はこのとき以降、良識を模した偽善に根深い憎悪を持つことになりましたね。ふざけやがって。クソ、信用できるか。
  
 心が折れた私は、自由形の競技に平泳ぎで泳ぐという暴挙に出ました。「平泳ぎになってる」なんて女子の声を聞きながら、まぁ、この時が過ぎさえすればいいや、と思っていました。
 私は平泳ぎで泳ぎ切り、アナウンスが「頑張って泳ぎ切った瀧澤くんに、みんなで拍手を」とか抜かしやがるんですわ。死ねばいいのに。
  
 私は、周囲の雑音を一切シャットアウトして、自分の席に座り、世界中の全てが敵である状態に身をおいた。
 私の周囲でコソコソと話をする声が聞こえてくる。なんでも自分が陰口を言われているような気がしてくる。
 そのコソコソが、なんとなくザワザワと耳障りになってくる。気にし過ぎと言われればそれまでだが、気になるものは気になる。
 「なぁ、あれ誰だよ?」
 ん?
 どうも私の話題ではないらしい。なんだろうと思い顔を上げると、みんな、プール横の土手の上にある学校の裏門の方に目をやっている。
 裏門の向こうには、西郷隆盛銅像のように堂々とした姿勢で立っている私の親父がいた。しかも、いつも以上に薄汚い格好していやがる。だらしなく伸びきったTシャツに、短パンだ。そして、ちゃんとご丁寧に飼い犬まで連れてきている。
 参観している人間など他にはいない。私の親父ただ一人である。とりあえず今、自分に何が起きているかはわかってはいるのだが、現実を認めたくはない。
  
 「女子の水着を見に来た変質者じゃねーの?」
 もうね、どうしてくれましょうかね?
 「もう! 早く帰れ!」私は強く念じながら親父を睨みました。すると親父は私を見つけたのか、愚かなことにこっちの腹芸を寸毫も受け取ることなく、なんと手を振りやがった。
  
 「おい、手を振ってるぞ」
 私は慌ててまた顔を伏せた。悲鳴にも似た嘲笑がプールサイドで起こる。
  
 「誰かの親じゃねーか?」
 こっちに手を振っていたのだから、私の周辺が疑われた。
  
 「瀧澤くんのお父さんじゃないの?」
 「え? 違うよ」
 私はうつむいたまま答えた。そのときだよ。
 「おーい、達也! おーい」
 死ねばいいのに。この辺り一帯、不発弾かなんかで吹っ飛べばいいのに。
 私が顔を伏せているのを、私が気が付かなかったと勘違いした莫迦親父が、とうとう名前を呼んで手を振って叫んでいる。
  
 「なんだよ『達也』って、やっぱりお前じゃんかよ」
 「えー。瀧澤くんのお父さんだったの?」
 なんで、この世ってもっと昔に滅んでなかったんだろうね?
 私は落ち着いて答えました。
 「わたしの父とはだれですか。また、わたしの飼い犬とはだれのことですか。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの父、わたしの飼い犬たちなのです」
 そう言うと、私はやおら立ち上がり、プールの水の上を歩いて向こう岸まで渡りました。
  
  
 しかしまぁ、親というのは、本当に恥ずかしい。
 これは、学校や会社などで使っている人格(ペルソナ)と、家庭での人格との落差で起こる恥ずかしさだといわれているわけです。
 かのイエス・キリストでさえ、地元では恥ずかしがっちゃって奇蹟も行えず、「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです」などと泣き言を言った上、その奇蹟が出来なかった理由を地元の不信心のせいにしてます。
 家族なんかは特にハッタリが効かないからね。バレちゃってるし、照れちゃうし。
 まぁ、キリストもけっこういい人だったから、愛してあげてもよかったけどね。