交流のコストとリスクとリターンと心弱さと

  
 これは私に限った話ではなく皆さんがそうなのかもしれませんが、あるいは私が廃人であるからなのかもしれませんが、交流のチャンネルを維持するのが面倒臭いんですわ。
 改めて文字に起こしてみると明らかに廃人ですね。
「交流の チャネルの維持の わずらわしさ」
 廃人です。字余りです。皮余りではありません。ひとつ上の漢です。
  
 まぁ、私がブックマークをした記事で、コミュニケーションや交流について、その「コスト」や「リスク」の観点から、得られる「リターン」を判断し、コミュニケーションや交流を維持するかどうか判断をする、とインスパイヤーさせられるエントリがあるわけです。*1
 このあたりの判断、特に「リスク」を勘案しながら「コスト」を計算し「リターン」と見合うのかを考えると、極めて合理的なような気がします。
  
 ところがこの「合理的判断」を、おそらく最も原始的で基本的ともいえる人間関係に当てはめてみます。
 言うまでもなく「最初の他者・母」です。
 受精におけるセックスは自分も喜びであるからしたとして、その後の妊娠中や出産における身体や生命に関わるリスクや負担などのコストが発生します。
 そして食費から学費から光熱費やら交友費やら何かと金銭的コストがかかります。
 子供のころから勉強もせず遊んでばかりで、関東近郊の名門女子高からなんとか在京の私立大学に入ったと思ったら、わけのわからん変なサークルに入っちゃって悪い男に騙されて、いいように遊ばれて捨てられたと思ったら「死にたい」とか泣き出すからそれを慰めて、失恋の痛手を癒すために好きでもない男と寝てみたら妊娠してしまい、仕方なくそんな男と結婚してみたらすぐに離婚し、子供を連れて出戻ってきて実家に住み込んでいる、なんて、もうなんて母親はストレスが溜まるんだ。
 子育てなんて「合理主義」で判断するならば、真っ先に切り捨てるべきリスクとコストです。
 これほど割の合わない人間関係もありません。
  
 そもそもこの「リターン」とは何であるのか? というと、卑近なところでいえば「寂しさを紛らわせる」とか「楽しい」とか「知る喜び」とか「ためになる情報」とか「セックスが気持ち良い」とか「メシを作ってくれる」とか、廃人の私にはあまりぽんぽこ出てきませんが、どこか「リターン」というよりは、「相手を利用する」というイメージになりがちです。相手を利用して得したいから、コストやリスクをかけるのか?
  
 あるいは、「愛している人が愛してくれているのが嬉しい」という、近代以降かなり大きな「承認」という「リターン」もありますが、これなんかはすでに「手段が目的化」しています。もちろん主観の問題ですから「手段の目的化」を否定はできませんが。
 ただ、そもそも他者がいなければ、他者の「承認」も不必要なわけで、全てのレベルで「自己完結」できる『生』があるとするならば、それこそ「リスク」を勘案しながら「コスト」を計算し「リターン」と見合うのかを考えると、『全き孤立』が一番割がいいことになるでしょう。故に問うなかれ、誰がために鐘は鳴るやと、そは汝がために鳴るなれば。
  
  
 交流を持ちたいのは、合理的な利益ではなく、業である。カルマだ。
 そうとしか言いようがない。
 何故にそう言い切るかというと、宗教に逃げるのが楽だからであって、急に偏差値が低くなったような気がするが、それは気のせいだ。人間は合理だけで判断するものでもないのである。
  
 そのような不条理に対するには、抽象的な話になり恐縮ですが、覚悟と信心しかありません。
 まぁ、信じてやってみた結果、リターンもなく、コストとリスクだけが残り、さらにはそれがダメージになったとしても、それを覚悟するより仕方がないわけです。交流を望むことが不条理である以上、不条理に対抗するには不条理しかありません。
 ダメージといっても、自分が傷つくなどというものは楽なもんです。他者を傷つけるほうがダメージは大きい。
 傷つけたことによってこちらが傷つくというのは、自己満足でしかなく、自分が傷ついたからなんだという話なのだが、合理主義者ではない私としては、この精神のポトラッチが多少は救いになったりする。全く解決にはならないけど。
 そもそも、交流を望むことが不条理である以上、不条理で対抗するしかない。
 
  
 私は交流のチャンネルを維持するのが面倒臭いんですわ。
 だからそれとなく繋いでおく関係というのを意図的に作れないわけです。
 しっかり「繋がっていたい人間」と「それ以外」となりがちです。
 そのせいなのか知らないんですが、それぞれの対応の差が大きくて、困ります。というか廃人です。
  
 「それ以外」の人に対しては、かなりお座なりになりがちで、何らかの局面では、非常に非情に合理的に切ってしまうのです。ヴァレンタインチョコを拾わなかったり、「富士の樹海に行きます」という呪いの言葉に「そうですか」と答えてみたり、あまり良い傾向ではないようです*2。それなりにできるだけしてみて、最悪、関係が切れちゃっても良いかな、という覚悟を決めてしまったら、泣いて馬良を斬るです。白眉でも斬っちゃいます。
 その一方「繋がっていたい人」には、何をしても悪い方向に転んでいるのではないかと不安で仕方がなくなります。ちょっと弱すぎるだろう、というぐらいに弱くなります。「大丈夫か? 大丈夫か?」と常に不安になるわけですが、不安になると「大丈夫なの?」と確認を取りたくなってしまいます。すると今度は「確認自体を鬱陶しがってないか?」などと心配は尽きません。どうも、廃人です。
 どう考えたところで、リスクやコストがインフレ起こしてますが、信仰に理由はありません。
  
 ネットでのネガティヴコメントについてはまた後日にでも。

*1:インスパイアーは私が勝手にするものです

*2:前者は私が悪いが、後者は地雷だ。一発でもやってたとかならともかく握手を求められたから握手に応じただけだ、って誰に向けての言い訳だ?