素朴な疑問

  
 今更ですが、素朴な疑問というハンドルで、恋愛系というか非モテ系というか、書き込みしている人がいました。
 この人は、最終的に議論の最中で「ネタ宣言」をします。
http://d.hatena.ne.jp/crowserpent/20070309
 これを読めば大体の流れがわかると思います。
 ちなみに、本人の後出しじゃんけんはこちら。 http://qsoboku.exblog.jp/5641282
  
 この件に関しては、私は普通に『特に能力も魅力もない高校生が、思春期の過ちから自分に万能感を持つものの、努力しても特に誰からも認められず、それが自尊心を傷つけて許せなくて、「自殺してやる! 俺は爆死するぞ!」と騒いで注目を集めた。そこに「ここがこないだ爆死した莫迦の現場だってよ」と野次馬が見に来るのを、あの世から眺めて自尊心を満足させるものの、嬉しさから感極まってたまにゾンビとなってしつこく蘇っている』というメンタリティの認識でいます。
  
 議論としては、成り立っていたというのが、ほぼ全ての認識であり、であるならば「議論」の価値としては特に損なわれてはいないわけで、そもそも「ネット議論」に価値があるのか? という問題はありますが、卓袱台返し自体で損なわれたものは特にないでしょう。爆死した人以外は。
 ディベートにおいて、ある議題について事前に二つの立場から、たとえば「死刑制度の存続の是非」という議題で、「YES」と「NO」の両側で立論準備し、ディベート本番の前日にくじ引きでどちらの立場になるかを決めるということが行われます。
 もし私が「死刑存続」という主張にあったとしても、それに対する「死刑廃止」というくじを引けば、そちら側のディベートを行うわけで、そのディベートが成り立っていれば、私の主義主張は「ディベート」の価値としては直接関係はない。
 自分の主張と異なる立場のくじを引いたら、ディベートそのものが無効になるということはないわけです。
 ディベートとは「ゲーム」であり、そのゲームとは遊びではなく、「Game」=「試合」です。 試合は真剣に誠実にルールの範囲でやりますが、負けたからどうなるという話でもありません。
  
 ネットの議論の場合は、立場は自由ですから、原則として自分の主張の側に立ってしまいます。
 それ故に、自分の主張を否定や批判をされると、即、それが人格を否定や批判されたかのような認識をしてしまいます。強ち外れてませんが。
 このために「自尊心防衛」のための戦い、逆に言えば「優越感ゲーム」が生まれてしまうわけです。
 そうなってしまうともはや「ネットは趣味」とかではなくて、いきなり「全存在を賭けた勝負」になっちゃったりして、「ネタ逃げ」や「卓袱台返し」の爆死をする人が出てきます。
  
 「優越感ゲーム」であれば、釣った釣らないは重要なんでしょうが、私は大野さんの考え方に近いです。
http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20070212
 相手がきちんと会話が成立する前提で話を始めるというのは、騙されたとしてもトータル的に得るものの方が大きいでしょう。
 それはそこで生まれる関係性や、あるいは娯楽であったり、またはちょっとした知識であったり。騙されて失うものはそこまで大きいんですかね? まぁ、完全無防備という話とは別ですが。
 そもそも、騙されたからといって、それで他の人に迷惑さえかからなければ、どうということでもありません。
 ある程度相手を信用して対話をすることで得られる関係性のほうがリターンとして、騙されるリスクやコストよりも高いのではないでしょうか。
 相手が信頼できる人間であるかどうかは、相手と対話を始めてから徐々にわかればいいことであって、心から信頼している相手に裏切られればショックですが、これから信頼するかどうかを判断する段階で裏切られても、まぁ「可哀想な人なんだ」という話です。
 釣りというのは、余程の芸がないと、釣った側が「可哀想な人」になるわけで、今回の素朴な疑問さんのように「釣りでした宣言」が異常に長文になっている時点で、ほとんどの場合それは芸として成立してません。
 それだけ必死な解説と言い訳と後出しが必要な釣りって、未熟といわれても仕方がないことでしょう。「モーッ! モーッ!」
  
 ネット議論が「ゲーム」すなわち「試合」であるとするならば、今回の件を将棋にたとえてみます。
  
 素朴な疑問さんは、将棋台につき将棋を指し始めたわけです。「7六歩」から始まり、駒の動きは規則通り。手は下手であってもちゃんとルール通りに手を指している。
 それなりに熱意のこもった手を打っていた彼は終盤、突然に将棋台をひっくり返し、こう宣言しました。
 「ネタですわ。私、将棋なんてどうでもいいんです。将棋指しの連中は「対戦相手の信頼性」という危険性への問題意識の無さに気付いていないんです。バカだ。
 そこで私は実験をしようと将棋を指したのです。するとみんなマジで対戦してきました。何を考えているんでしょうね。7六歩のあとに7七桂なんて打つはずないでしょ」
  
 ヒステリーを起こした少年が将棋盤を必死にひっくり返しているのを見に野次馬が集まります。すると彼は続けて宣言します。
 「将棋を指してるときには数人しか見てなかったのに、将棋盤をひっくり返したら大勢集まってきた。みんな何を考えているんだにゃー。バカだにゃー。
 私は莫迦の振りをしながらわざと下手な手を打ったのに、誰もそれに気が付かなかった時点で、みんなの将棋の力量は見えました。将棋好きがその程度ではこれからの庶民将棋は心配だにゃー」
  
 その後も、自ら将棋盤をひっくり返しておきながら、「あの後、私ならこう打った」というのを得々と語ったりするのですが、それまでの下手な手との違いがまるで見えない。
 将棋盤をひっくり返したところで、棋譜の一部は残っており、感想戦はいくらでも可能なんですよ。
 そして彼は一人、将棋盤を一つひっくり返すことで、将棋の全てをひっくり返すことが出来るという万能感を抱きながら、未だに他人の将棋を傍目で見ている。
  
 町の将棋指しは「可哀想な人なんだな」と思いつつ、駒を拾って再び将棋を指すだけですわ。