神に選ばれしもの

  
 昔、忘れもしない、たしか、そう物心がつく前だったから、ティーンエイジャーの頃の話です。
 私は父の仕事の都合でメキシコに一人旅をしていました。
 現地の路線バスで、サン・クリストーバル・デ・ラス・カサスとかオアハカとか、時には勃ちっぱなしで何時間もジャングルの中を移動して、いろんな遺跡にイっていたのですが、そうあれは忘れもしない、どこだったか確かモンテ・アルバンあたりだったかと思いますが、その遺跡でのことです。
 神殿やら天体観測所やら、ピラミッドのように石積みされた遺跡を見たりしながらですね、その案内の本を読んでいたわけです。
 遺跡の中に、球戯場がありまして、今でいうサッカーのような競技をしていたそうです。
 そして、そこで優勝者を決める試合をします。そして、その優勝者にはなんと、神に捧げられる栄誉が与えられたのです。
 神に捧げられる栄誉とは、確か、春分か何かで行われる年一の祭りで、神殿の一番上で腸を出しちゃって生け贄になれるという素晴らしいものです。
 まだ物心付く前の剛毛も生え揃う前のことですから、私としては、なんで殺されることがわかっていて優勝を目指すのだろうか? わざと負ければいいのに、などと考える一方で、せっかく一番巧い人を殺してしまわずに、せめて二番目の人にしておけばいいのに、などと考えておりました。
  
 言うまでもなく、これは私の、宗教に対しての無知から来るものであることは言うまでもありません。
 多くの日本人が「無宗教」と勘違いしている日本特有の宗教観と、近代合理主義や科学主義というイデオロギーからの断罪の視点で、私は「神を騙せ」などという、不埒なことを考えていたわけです。
  
 人間には全く不条理に災難が襲い掛かることがある。地震や雷などの天災もそうである。
 また例えば、真面目にウェブログを更新して誠実にコメントを残しているだけなのに、突然、さしたる理由もなく複数の異性から袋叩きに遭ったり、全く運が悪いとしか言いようがない厄災がある。
 この非合理的な理不尽に対して、「合理主義」や「科学主義」は、起こっている事態のメカニズムだけを科学的に解明する。
 その事態が起きたメカニズムは解明できても、その事態により「私」が被害を蒙ることの「理由」については、ただ「たまたまそこにいいたから」という理由のみを呈する。
 それは事実の提示であって、全く「理由」には成り得ていない。もちろん「理由」などある必要もない。
  
 「合理主義」や「科学主義」においては、「そこに理由はないんだ」という「理由」によって、被害者に納得させる「世界の切り取り方」をするわけです。
 これに対して、宗教は「神の怒り」であったり「荒ぶる神」の仕業であったり「天神様」であったり「前世の祟り」であったり、外的な「理由」により納得させる「世界の切り取り方」もあるわけです。
 私たちは「科学的」というイデオロギーをもってして、他の、同じくイデオロギーであるものを「宗教的」と称しているわけです。
 宗教が「宗教」であるからという理由で、端から莫迦にし全否定するのは、宗教を妄信するよりもよほど莫迦であり、愚かしいと言えるでしょう。
  
 サッカーのチャンピオンを神に捧げることで「世界」は神により祝福される。サッカーのチャンピオンは皆のために誇らしく、犠牲になる栄誉を与えられる。
 私たちは「西洋近代合理主義」と「科学主義」のパラダイムの中で生きており、そのイデオロギーに疑いを持たないのは犬神様の祟りと等価であるという話は以前にしましたから、繰り返しませんが、当時の私は、自分が住んでいる「世界」の絶対性に疑問を持たなかったわけです。
 だからこそ、「神」を騙してでも、「神」よりも「自分たち」を優先すればいいのに、などと勘違いしたわけです。
 人間が神に優先される世界。
  
 サッカーでチャンピオンになることで、神に捧げられて、神に接して、神と同じ時を生き、もしかしたら神に食され神と一体化できるのではないか。そう考えるだけで、打ち震えるほどの喜びになることだって、いくらでも想像できるわけです。
 その至高の栄誉を目指し、練習を繰り返し、試合を戦い、神に触れる栄誉を手に入れ、至福の気持ちで生け贄になる。
 それは、言うまでもなく、最高に幸せな人生であると言えるだろう。
 今からでも遅くないので、昨年のワールドカップで優勝したアズーリのメンバーを全員、神の生け贄にする栄誉を与えたらどうだろうか?