手段が目的に変わるとき

  
 童貞は、自分が愛されたいと思う相手にだけ、愛されればいいと思いがちで、普段の「気を配る」という行為は蔑ろになりがちです。
 この「気を配る」のは大変な手間がかかりますから、これが成功するとしたら、非常に効率的な話です。
 しかし、成功などしないわけですよ。そんなんが成功するなら、モテる奴がもっと上手くやってるって。
  
 モテる人間がどうやっているかというと、とにかくコストをかけても、多数の人から好意を集められるようにするわけです。
 それは、例えば流行の遊びや情報に関心を持つとかもそうですし、普段から「気を配る」という行為もそうです。非モテはこれをしないでおいて自分に関心があることだけに興味を持つだけで、モテないと嘆いている。
 ミノタロウとかペケーニョの話や朝日昇の話に興味を持つ女子がいるわけないだろ。ギロチンチョークとフロントチョークは、どっちがギロチンチョークでどっちがフロントチョークにふさわしいか、なんて禅問答にしか聞こえんだろ。
  
 モテる人が、何故に多数の人間から好意を得られるようにするかというと、分母が広がるからです。
 例えば、一人からしか好意を集められなければ、その一人を自分が気に入らなかった場合、それで終了です。選択の余地がありません。
 では、十人から好意を集められれば、自分も気に入る相手がいる可能性は、単純計算で十倍になります。
 さらには、百人、千人、万人と増えていけば、百倍、千倍、一万倍です。
 言い寄ってくる異性の数が増えれば増えるほど、分母は大きくなり、可能性は大きくなるわけです。
  
 さらには、その「気に入る」分子が複数になれば、また、分子の中からも、より好ましいものを選ぶことが出来るようになります。
 つまりは、妥協点に比べて、高次元の相手を選ぶ選択権が出来てくるというわけです。
 もちろん「愛しているのは彼一人なのよ」と思っているわけでしょうが、それは十人から選んだ一人なのか、一万人から選んだ一人なのか、分母と分子によって、必然的に条件のレベルも変わってくるでしょう。
  
 つまり、分母が大きければ大きいほど、選択肢も条件も多く高くなってくるわけで、多数から好意を受けるように振舞うことは、恋愛においては非常に重要なことと言えます。
 しかし、これが時としておかしな効果を生むときがあります。
  
 例えば、多くの女性から好意を受けている男が、いざ、その中から誰か一人を選ぼうと思うときに、一人を選んでしまうと、他の女性の気持ちが離れていったり、自分への関心が薄れてしまったり、アプローチのモチベーションが下がるのではないか? などと考えるのです。
 そうすると、せっかくこれまで多数の好意を、えらいコストをかけて集めたにもかかわらず、一人を選んだためにそれを失うとすれば、もったいないのではないか、などと思い始めます。
 するとここで、「選ぼうとしている一人」<「他の全員」という不等号が成り立ちます。さらには「選ぼうとした一人との交際」<「これまで好意を集めるためにかけたコスト」などの不等号も出ます。
 結果的に、選択肢を増やすために広げていたはずの分母が、かけていたコストが、自らの選択のハードルを上げ過ぎてしまって、逆に何も選べなくなるという逆転現象が起きます。
 となると、この広げた分母を維持しよう、という選択をして、特定の一人を探すためという目的が失われてしまいます。そして、分母を広げるという「手段」が目的に変わってしまうわけです。
 たまにはNOV1975さんみたいな終わり方をしてみよう。