「社会」が「宗教」を許さない 

  
 神に選ばれしもののコメント欄、「『宗教』が『宗教』として振舞うことが許されなくなった」という話について。週末なので下敷きの内容で。
  
 日常生活の中において、宗教的な振る舞いというのはたくさん残っていて、むしろそれが生活のベースに密接であると思われたりします。
 例えば、葬式や墓参り、クリスマスや初詣、結婚式やお祭りなど、年中行事として、人生の節目のイベントとして、宗教は生活とは切り離せないような役割を担っていると思われています。
 私はそれを近代主義からのお目こぼしと書いたわけですが、それがどうオメコぼしであるのかというお話。
  
 例えば「近代科学」というのは、薬にしろなんにしろ、病気を治すのに有効性が高い場合が多い。
 逆に言えば、「科学的」な視点からの判断で、九割がた助かる見込みが無いと言われたときの患者の心のケアは科学に何が出来るのか? というと、何も出来ない。
 では宗教であれば何が出来るのかというと、多少は出来るのだけれども、日本の既存宗教にはほとんど力は無い。
 これは山折哲雄という人が指摘していることで、当然ながら私はその本を読んでいないわけだけれども、次のようなことを言っている。『さまよえる日本宗教』中公叢書より。

阪神大震災が起こったとき、家を焼かれたり壊されたりした人々に、向かって、『悲しんでいる人たちは幸いである。あなた方は慰められるであろう』と言うような聖書の言葉を持ち出すキリスト教徒がいただろうか。
震災で苦しんでいる人々に向かって、『人生は苦である、執着を絶ちなさい』という仏教徒はいなかったに違いない。

 宗教団体がやったこととは、オウム真理教を含めて、物理的な支援やボランティアであり、それをやったことを新たな信者獲得のために喧伝することだった。
 物資の支援やボランティアは、政治活動や、あるいは実務として行われることであって、宗教的な振る舞いではない。
 もしも山折が指摘するような「宗教」としての振る舞いをしたのであれば、その宗教家は袋叩きに遭うか、吊るし上げを喰らうであろう。
 「宗教」が「宗教」として振舞うことが許されなくなったというのは、こういう意味である。
  
 それから二ヶ月後、阪神大震災でボランティアをやったと自慢していたオウム真理教が、東京の地下鉄でサリンを撒いた。
 これを「あんなものは仏教ではない」と言うのも簡単であるし、あるいは「宗教ではなく犯罪者集団」と切って捨てるのも簡単であろう。
 それに対して「日本仏教の全ては仏教ではない」というのと同じであるし、「学生運動は犯罪者どもの吹き上がり」と切って捨てるのが簡単であるのと同じだ。
 少なくとも犯罪者集団の犯罪実行者が、信仰や妄信や狂信で犯罪を犯したことは間違いのないことであり、オウムが犯罪者集団であるからとの理由でオウムに入り犯罪を実行したものはおそらく皆無だろう。
 「近代国家」や「社会」は、自らの領域に侵犯してくる「宗教」に対して「狂信」を許すことなく排除し、殲滅しようとした。
  
 「例外状況」の中から国家の本質が顕わになる。天災や内乱が起こるとき、その国家の本質が露骨に表れる。
 これはカール・シュミットという人が指摘していることで、当然ながら私はその本を読んでいないわけだけれども、そのようなことを言っている。
 国家とは暴力装置を背景にしており、当然それを独占しようとするものである。
 この暴力装置の前に首根っこを押さえられて、肉を喰らい女を抱き酒を飲む糞坊主どもは、まはや宗教者どころか宗教信者ですらなく、単なる世俗の民主主義者に成り下がっている。
 これはもう「共存」というよりは「支配」されているというべきである。普遍の真理から離れて、世俗という時代と寝る道を選んでいるわけだ。
 福田恆存が『一匹と九十九匹と』で言ったように、といっても当然ながら私はその本を読んでいないわけだけれども、迷える一匹を探さなくてはならない文学や宗教などの「物語」を説くものが、特に宗教は九十九匹の中に入り込み「道徳」として寄生し、迷える一匹の子羊のことなどは我関せずとなっている。
 「宗教」の側も「支配」されることをよしとして充足しているのが、現在の日本の「共存」だ。
  
 少なくとも、仏教者や耶蘇教者の信心の低さに比べれば、「人権」という神様を信仰している人たちの方が、よほど熱心に「狂信」していると言える。
 世界的に見ても、イスラームに対して果敢に宗教戦争をおっぱじめるほどには、凄まじい「狂信」をしていらっしゃるようです。
 この話をしだすと、話は尽きないわけですが、誰も喜ばないでしょうから、もうやめます。
  
 さて、ここからはnogaminさん宛て。
 病気の治癒だって、祈祷から抗生物質に取って代わって治る病が増えているという客観的事実は、宗教を信じている個人もみとめるものでしょう。と書かれていまして、私は認めるのですが、病気が治ればいいのか? という問題がありますよね。
 エホバの証人の輸血拒否がありますよね。輸血をすれば治る可能性が高くなる場合も少なくないのに、それでも拒否することがある。
 血清なんかは主に馬を病気にして苦しめて作ったりしますが、もしこれが牛だった場合などは、ヒンドゥーの多いインドでは、おそらく使われることはないまま死んでいくでしょう。
 例えば今も問題になっていますが、「脳死」体からの臓器移植もあります。
 さらに言えば、昭和天皇崩御の際には「現人神の玉体にメスを入れるのか?」という國體主義の主張もありました。
 治癒率の高さをとってみても、他の「宗教」との衝突は起こるんですよね。
  
 あと、これは蛇足なんですが、「近代科学」というのは、そのパラダイム内の客観性を保証するわけですよね。
 「科学哲学」に対しては足元を揺るがされるにしても、「近代科学」イデオロギー内での経験科学というか科学方法論的な実証的科学の客観性については、特に「自然科学」には信頼性を持っているわけですよね。
 率直に言えば、私も持っています。
 ところがこれって、nogaminさんは、どこまで客観的事実として確認できているか考えたことありますか? たぶん、あると思いますが。
 もうね、科学がさ、一般人の手には届かないところまで来ているじゃない。「原子核」とかさ「ニュートリノ」なんて言われてもさ、私は見たこともないし、個人的には科学者と理論を「信頼」して「信じる」しかないんだよね。もはや、宗教と一緒だよ。
 「追試に耐え得ると複数の科学者が言っている」のを信じるしかない。
 実を言うと、天動説ですら確認するのが億劫だから、信じているだけなんですけどね。「個人的な客観」*1ならば、太陽や星のほうが回っているんですよ。
 さらに言えば、脳髄学や量子物理学などの最先端なんかは、最先端の数人で共同謀議してしまえば、世界中の誰もがもう手に負えないわけでしょ? ソウル大の遺伝子学の捏造問題でもすぐに追試で発覚したわけでもないようだし。
 もちろん私は、「近代科学」のその科学性や反証性は世間知として「信じて」いるわけですが、これは「客観的事実」と私が断言できるものではなく、飽くまでも「客観的事実」と信用できるという域を出ないんですよね。
 当然ながら普段は「客観的事実」であると言いますけどね。

*1:もちろんシャレですよ