最期の桜の花びらが散るその時に

  
 私が彼女の病室を訪ねると、彼女は身体に管を通され、呼吸をするにも肩で息をするように、苦しそうにしていた。
 彼女は苦しそうにしながらも、口元だけは私に笑って見せた。
 彼女に昔の美しき面影はなく、ただただ病気と闘うことに疲れ果てた病人であった。病は肉体だけではなく精神的にも蝕み、精も根も尽き果てているようだった。
 私は彼女の、聡明さ、理知的で強い心に惚れたので、今の彼女の姿を見るのは忍びなかった。
 だが私は、自分が惚れた女性を元気付けようと、彼女を見舞ったのだ。
    
 彼女は負けず嫌いで、なんにでも真剣に取り組んだ。
 自分に甘えることを嫌い、全てを合理的に判断し、冷静に分析し、解決のために全力で取り組んだ。その姿は、男である私から見ても、尊敬せざるを得ないほど、格好良いものであった。
 男が女を尊敬するのは格好悪いというくだらない意識は私にもあって、それでも尊敬しないわけにはいかないほど、彼女は理知的で強く、そして颯爽としていた。
  
 私は、少しでも彼女に明るさを取り戻してもらおうと、思い出話をした。
 彼女は、昔のような笑顔で笑って聞いていた。
  
 面会時間が終わり、私は帰らなくてはならない。
 私が「また近いうちにお邪魔しますね」というと、彼女はまた翳りのある暗い表情に戻り、こう言った。
「そこの窓から見える桜の樹があるでしょ。あの桜の花がね、全て散るときに、私はもう、この世にはいないんだなって思うの」
  
 私はなんと答えたら良いのかわからなかった。
 私は逃げるように病室を飛び出した。
 私は走って、あの病室の窓から見えていた桜の樹に向かった。
 私は息を切らしながら桜の樹までたどり着くと、桜の枝に飛びついて揺すり、桜の幹に体当たりをした。
  
 若葉が芽吹き、八割方散ってしまった桜の樹から、はらはらと残り少ない花びらが散っていく。
 私は枝にしがみつき、揺すってせっせと花びらを散らす。
 私は、桜の枝にしがみつきながら、何故に彼女があんなことを言ったのか、繰り返し繰り返し考えた。
  
 私は、彼女の理知的なところが大好きだった。彼女の心の強さに惚れていた。
 その彼女が、自分がただ病室から見ているだけの桜の樹に、自分の命の終わりを重ねていた。私はそれが許せなかった。
 彼女は桜の樹に運命を物語を仮託していた。何故、自分の手で、自分の気力で、自分の運命を切り開こうとしないのか。
 私の知っている彼女は、ずっとそうやって人生を戦ってきたではないか。何故に諦めてしまうのか。
 もし、本当に死んでしまうとしても、最後まで、負けても最期まで、いつもの通り理知的に自分の手で、戦って欲しかった。
 それが彼女であり、それが彼女にふさわしい。
  
 もし今、私が全ての桜の花びらを散らせることが出来たなら、全ての桜の花びらが散ったのを見て、自分が生きているのを認めるならば、彼女はまた、自分の運命を自分の手に取り戻せるのではないか。
 私はそう信じて、巨大な桜の樹にのぼり、枝を揺すり続けた。
 桜の花びらはどんどんと散り、あとは上のほうに残るだけになってきた。
 私はさらに高く桜にのぼり、泣きながら激しく揺すった。彼女の病室がぼやけて見えた。
  
 どのくらいの時間が経ったのだろう。
 桜の花びらはほとんど散り、一番てっぺんの枝にいくつか見えるだけにまでなった。
 最後の花びらを散らそうと、私がそのてっぺんの枝を揺すろうと手を伸ばした瞬間、その枝が私の握ったすぐ下でポキリと折れた。
 私はバランスを崩して、頭から真っ逆様に落ちていった。
  
 私は頭から堅い地面に落ちたが、痛みは特に感じなかった。
 ただ、有り得ない方向に首が曲がり、たぶん、首の骨が気管を圧迫して、呼吸が出来ない。
 おそらく頭蓋骨が割れて血が出ているのだろう。なんとなくぬるぬるした感触が耳と首から感じられる。
 呼吸が出来ない苦しさが、なんとなく和らいできた。たぶん、失血により意識が薄らいできたからだろう。
 最後の桜の花びらが散るときに、この世にいなくなるのは、私のほうだったのか。
 そう思った瞬間、脳髄がぐにゃっとなる感触があり、私の意識は完全に消えた。