「理念の不徹底という状態」と「理念自体の不徹底」の違い

  
 思想やイデオロギーというものは、最終地点に根拠が無いということで、全ては宗教と同じであり、それ以上の根源に遡るのは不可能な、形而上学的なものです。
 この「宗教と同じ」というのは、そのイデオロギーに完全なる根拠が無いという不安定さが「宗教と同じ」であるという意味であり、逆に言えば、その根源的な形而上学的な『神』を熱心に信奉するしかないところも同じだ。
  
 例えば今、日本は民主主義制度の中で生活しているわけで、人権思想を根底にした憲法で国家が縛られて運営されている。
 民主主義というのは、万人に理性というものが備わり、啓蒙思想によりその理性をもって、平等に自由な考えで政治運営に参加するから、最良の政治形態であるという前提に成り立っている。
 人間に「人権」などが備わっているなどとは誰も保証できないし、そもそも「理性」など誰もあるなどと言えない。もちろん「平等」でも「自由」でもない。そして、誰も森羅万象に対する知的欲求など持ってはいない。
 それは端的に事実である。
  
 しかし、それが事実であるからといって、それだけで民主主義や人権思想が否定されるわけではない。
 何故ならば、それは他のイデオロギーも同じだからだ。
 例えば「神」や「霊」の存在など誰も保証できないし、神に対して祀ったり拝んだりしたところで必ずしも最良の状況になるとは限らないからだ。
 つまり、民主主義や人権思想は、他の宗教と同じだけ優れていて、同じだけ劣っているに過ぎない。「他のイデオロギーは宗教だが、民主主義や人権思想は違う」などという思い上がりも、他の宗教の「俺の神様は他の神様とは違う」という思い上がりと一緒である。
 だから、ことさら民主主義や人権思想が劣っているわけではなく、まさしく宗教という点で等価である。
  
 だが、神に対して祀ったり拝んだりしたところで必ずしも最良の状況になるとは限らないからといって、他の宗教は、神に対する畏敬を蔑ろにするということは滅多にない。
 普通、自らの信仰が弱かったのではないかと反省し、より深く強く、狂信的に信仰するようになる。
 まして、自らの信仰が中途半端であり、神様を蔑ろにすればするほど、人々が幸せになる、という宗教はまず考えられない。
 プロテスタントは、形から離れた宗教であったが、故に内心や内省が重要視されて、より狂信的な宗教となった。
 神に畏敬の念を持ちすぎると不幸になるから、神を適当に蔑ろにしなさいという宗教は、その宗教の根幹を否定するものである。
  
 例えば民主主義や人権思想の場合、私の生活水準とアフリカで飢餓で苦しむ子供の生活水準を見て、「平等だ」という人間はいません。たぶん。
 これは完全に教義である「平等」に対する信仰に合致していません。
 それを認めるならば、自らの富を投げ打って寄付することもできます。それもひとつの手段です。
 また、逆に「平等」という思想を投げ捨てる。棄教することもできるでしょう。これもひとつの手段です。
 他に道はないのでしょうか?
  
 例えば他の宗教において、なんらかの不条理な不幸があった場合、神を恨むということはあるでしょう。畏れるとともに恨むこともあるのではないでしょうか。
 その人は、恨んだということはその信者でなくなるのかというと、そうでもありません。神に対する信仰心はありながらも、それでも恨んでしまう。そしてそれは悪いことだと認識している。
 神を恨むことは悪いことだと認識しながら、それでも神を恨んでしまう自分の心の弱さも認識し、反省するでしょう。
 ならば「平等」という神に対しても、同じことは言えるわけで、「平等」に背くことは悪いことであるが、それに反してしまう自分の心の弱さを認識し、心を痛めることはできるわけです。
  
 ところがこれが、「平等というのは厳密でないほうが良いんです」とか「杓子定規はかえって良くない」とか「程度の問題で考えるべきです」となると、鷹揚なようでありながら、思想やイデオロギーとしては死を意味します。
 「全知全能の神なんか絶対じゃないんです」とか「信仰心なんて真剣じゃないほうが良い」などという宗教はありません。
 何故なら、その思想やイデオロギーの根幹となる部分には根拠がないからです。
 根拠が無い以上、それを絶対化しないことには、そのイデオロギーや思想は生きません。
 「平等」というイデオロギーならば、人類が全て平等でなければそのイデオロギーは生きないのです。というのも、一部の不平等を認めた場合、全ての「平等」の根拠がなくなるからです。
 何故に私とあなたは平等と言えるのか? 「全人類が平等だから」と言えない限り、ひとりでも不平等の人間がいると、改めて全ての「平等」の根拠を問われることになります。そんな根拠はありません。そこでイデオロギーは死ぬのです。
 全ての例外を排除するまで、思想やイデオロギーは普遍化されるように敷衍されていくのです。
 誤解のないように繰り返しますが、「平等ではないこと」がイデオロギーの死ではありません。「平等ではないことをヨシとすること」がイデオロギーの死です。
  
 民主主義には啓蒙思想が不可欠です。何も知らないのに「選択」はできないからです。
 「知らない」ことは不本意ながら仕方の無いことですが、「知らなくていい」となると、啓蒙思想、ひいては民主主義もイデオロギーとして死にます。
 つまり「バカな奴を大人しくさせておくために騙すのは必要なこと」という考え方は、啓蒙思想や民主主義だけは、言ってはいけない、言ったらイデオロギーの否定になるのです。
http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20070416#c1176783467
http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20070426#c1177842521
 「南無阿弥陀仏」ということが信仰心の表れであるならば、それを唱えていれば良いというのは「方便」となりますが、「啓蒙思想の方便」というのは語義矛盾になるからです。
 「神への信仰をしないことが神への信仰である」というのと同じだからです。