自分の思考は自由なのか?

  
 夜中に支那そばが食べたくなる。ラーメンだ。
 見ていたDVDの中で、ラーメンを食べるシーンがあったからだ。
 これが例えば、CMを見て食べたくなった場合、まんまとのせられたということになる。
  
 ラーメンには、醤油ラーメン、味噌ラーメン、塩ラーメン、豚骨ラーメン、その他いろいろ種類があるわけで何種類が豊富なラーメン屋に連れて行かれたとする。空腹だし、どれも美味そうで食べたくなる。
 そこで「好きなラーメンを食べなさい」と言われたとする。
 私は迷って、結局は最初から一番惹かれていた豚骨ラーメンを選び注文する。
 上に紅生姜が乗せられている。ふざけるな!
 紅生姜を横によけ、周囲の赤い色に変色したスープを慌てて掬って飲み、それからおもむろに、プレーンな豚骨ラーメンを食しだす。
 まあまあのお味でした。
  
 ここで私は、豚骨ラーメンを自ら選択し、自分の意思で食べたとしか思えないわけだ。
 豚骨ラーメンが食べたかったから、豚骨ラーメンを選んで注文した。このことに間違いはないわけだ。
 しかし、これはラーメン屋に連れて行かれている時点で、既にその中での枠組ができているわけである。ラーメンの中で、という制約の中での自由だ。
 「ラーメンでもいいか」と思っただけかもしれないのに、ラーメンの中で選択を始めると、豚骨ラーメンこそが食べたかったかのような気にさせられる。
 雨が降りしきる中、ラーメン屋を飛び出し、泣きながら「俺が食べたかったのはカツ丼なんだ!」と、定食屋に行くことだってできないわけではない。
  
 例えば私はクロワッサンがわりと好きで、たまにロイヤルのクロワッサンを食べたりするんだけれど、これは私が自主的にロイヤルで購入して、食べているわけで、自由な選択以外のなにものにも見えない。
 これが、「自由な選択といっても、実は『クロワッサン』を食べさせられているといっても過言ではない」と言われると、いや、過言だろ、と言いたくなるわけです。が、しかし、だ。
 日本人はずっと米を主食にしてきた。
 大東亜戦争終了後、GHQ占領政策として、日本人に小麦粉を使わせようと、小学校の給食などでパンをメインにして、日本人の米離れを促すように仕向け、日本は小麦の輸入量が増加し、米の需要が減り、食料自給率が大きく下がった、としよう。
 これはある意味では「米だけではなく、小麦により、パンやラーメンなどの選択肢が広がり自由になった」とも言えるわけだが、GHQが「米離れをするように促した」とも言えるわけで、給食を通してある意味ではコントロールされたとも言えなくもない。
 私がクロワッサンを食べたいというのは、GHQ及びユダヤフリーメイソンの陰謀だとも言えなくもないわけだ。
  
 これを言い出せば、夜中にラーメンを食べたいと思うのは、CMにそう思わされていたからだ、という言い方もできるわけだけれども、実は「自由に選択している」と思っていても、それはある程度の枠組みの中でのみ「自由」なのであって、あたかも本当に自分自身の思考が完全に「自由」であって、本人が外からの影響を全く受けずに選べるわけでもないわけです。
 受験する大学を選ぶのも「自分が学びたいものがそこにある」というよりも、「みんなが大学に行くし、行っとかないとね」「就職のこともあるからね」「どの大学が一般的に恥ずかしくなく、むしろ格好いいかな?」「オシャレなのは仏教系よりもミッション系だよね」みたいな、その「選ぶ自由」の中にも、他者の目や影響は入りすぎるほどに入っているわけです。