ショボい眼鏡の壊し方

  
 私は万人から「いいひと」と評される。
 私は優しくて実際に良い人なのだから、そう言われるのも仕方がないことだろう。
 他人を傷付けるぐらいなら、自分が傷付いたほうがいい。私はそう考えている。
  
 何故「他人を傷付けるぐらいなら、自分が傷付いたほうがいい」のか、というと、後味が悪いからだ。
 自分が傷付いたときには、その傷が癒えるまでの間、ただ自分が傷付けばそれで済む話だ。
 しかし、他者が傷付いている場合は、その他者が傷付いているんじゃないかと、自分が想定している間中、ずっと後味が悪い。
 だから他人を傷付けるぐらいなら、自分が傷付いたほうがいい。
 他人が傷付いているのが嫌なのではなく、他人が傷付いていることで自分が後味が悪いから嫌なのだ。
 私はなんて自分本位なのだろうか?
  
 例えば私に傷つけられたと思った相手が、私に対して加害性を持った攻撃に出た場合、あるいは攻撃的意図を持った自虐行為に出る場合、私は非常に気が楽になる。
 相手が私に攻撃した時点で、その攻撃を受けた時点で、私は罰を受けた気になれるからだ。
 もし、相手が静かに傷を痛んでいるとき、「仕方がないよね」と私に攻撃せずに一人痛むとき、そのときに私は、一緒に痛むことでしか、贖うことはできない。それで解決するわけではないが、非合理な人間だから、多少は救いになる。
 攻撃をしてくれたほうが気分的にはよほど楽になるから、自分が傷付いたほうがいいだけだ。
 攻撃してくれば好きではない位置に勝手に移動していると見做せる。好きでいるわけではない人間が傷付いているのは気にする必要もない。気が楽だ。
 自分が好意を持っている人間が傷付いているのは、それはつらい。自分がつらいから、傷つけたくない。それだけのことです。
  
 しかし、そんな小悪党にもかかわらず、他人から「いいひと」と言われまくってしまうわけですが、これが非常に厄介です。
 人間、他者からの規定というのを自己規定にしやすく、しかも、褒められていると、自らその規定を枷として「良い人」として振舞うように意識強化させられてしまう。
 つまり「いいひと」と言われることで、「いいひと」として振舞うように実質的に強制されている。それは社会的に良い事ではあるんだけれども、これで「僕、良い人とか言われているのに、こんなにオナニーばっかりしてていいんだろうか?」とか悩んで自慰行為を控えてもう十八年。おかげで毎日夢精だよ。アナーキズム
  
 自分が「いいひと」ではないことを自分が一番良く知ってるのに、他者からは「いいひと」である枠にはめられ、そして「いいひと」を演じることになる。
 そうすると何か、自分が酷く偽善者になったかのようで酷く落ち込む。私は好かれたいから「いいひと」を演じて、そしてその評価を利用しているのかと。
 ならばその「偽善者」の呪縛から逃れるために、わざと露悪的に振舞えばいいのか?
 それはそれで「いいひと」というレッテルに振り回されて、自家中毒に陥ってやしないか?
 こうして、「自分が本当はどうしたいのか?」「私は一体どうしたかったのか?」それが自分でもわからなくなってくる。
  
 そして私はそれを悩む。
 その悩みをできるだけ正直にウェブログにあげる。
 すると、それを読んでまたみんな「瀧澤さんは『いいひと』だからそんなことにまで悩むんだよ」と書いてくれる。「それこそが優しい証拠だ」「あなたは正直なんだ」と。
 私はそんなことを言ってもらいたくて書いたわけじゃない、と思う。
 だけどそれは本当か? 本当はそう言ってもらえて嬉しいんじゃないか? なんかフォローをもらって安心したいという心は本当になかったと言えるのだろうか?
 本当に私は卑怯な男だ。
 自分を卑下して書いて、そのことにより自分を免罪して、そのうえで他者からは謙虚な「いいひと」という評価を得るのだから。
 本当に自分が嫌になる。
 みんな、どうしても言いたくなる気持ちは非常に良くわかるんだけれど、もう私に「いいひと」と言うのはやめて欲しい。
  
 みんな、私に「いいひと」だとか「優しい」とか「素敵!」とか「好きにして」とか、もう言うなよ。いいか、言っちゃダメだぞ。言ったらダメなんだからな。言うなよ。絶対言うなよ。わかってるな。いいか、絶対に言うなよ。
 期待してるからね。