山口光市母子殺害事件で「殺す」と言うインテリと「殺せ」と叫ぶ莫迦

  
 山口県光市の事件に関してエロ教師の会メガネ会長が記事を書いているのでコメントしたわけです。
  
 この事件に関しては、私は以前に書いております。
 刑罰は被害者のためでも加害者のためでもない別の都合によるもの
 これは簡単にまとめますと、近代刑法において、刑罰とは被害者のためにやるのではない、ということです。
 しかも刑罰は、犯罪者を更正させるためのものではありません。
 光市母子殺害事件は判例に照らせば死刑は不当である件
 これも簡単にまとめますと、日本の判例主義から考えると、この事件は無期懲役が妥当な判決である、というものです。
 念のために私に異論や批判がある人は、一応それぞれ目を通してからにしてください。
  
 id:teraccaoさんのところに書いたコメントでもそうなのですが、私の書いたものへの批判も同じく、他人の書いた文章をきちんと読み込まないまま、自分の誤読により批判や罵倒を投げかける人間が多い。
 批判しようと思うならば、読めよなぁ、と思ってしまう。
 自分が批判したい言説をあらかじめ想定して、その想定に対して批判しているものだから、全く私は関係ないのに、私に対して批判していることになる。
 例えば、私のエントリについたコメントなどは、本人はおそらく正義のつもりなのだろうが、相手がしてもいない主張に批判と罵倒をして、おそらくは自分は良い事をした善人だと満足して、書き込んだ後に射精をしたものと思われる。書いてスッキリしました、状態だろう。
 しかし、彼が書いているもので、私に向いているものは具体的にひとつもありません。端的に言ってしまえば、独りよがりな莫迦です。
  
 これは、私の書いたものに対して、論理具体的に反論しようと思えば、自らの誤読に気が付いたことでしょう。
 実はこれは私にもあることです。
 私も以前、id:MrJohnnyさんの吹風日記・最近の若者は本当にいたか、とカントは言った、皆が本を書いているを読んで違和感を覚え、反論を書き出したところで、自分の誤読に気が付いたことがあります。まぁ厳密には、誤読とは言い切れないのですが。
 つまり、相手の主張を吟味し、その主張から具体的に推測して反論するならば、あらかじめ想定していた思い込みの誤読はある程度解消されるはずなのに、相手の主張を読み込むことなく、自分が用意した思い込みの誤読に対して批判するから、莫迦をさらすことになるのです。
 確かにこれらの文章は、構造的には莫迦には難しい面があることは否定できません。
 でも、相手の書いた文章から、具体的かつ論理的に反論しようと思えば、まず誤読には気付くはずです。
 気付かないとするならば、それはもう莫迦か、あるいは主張を読まず印象で批判しようとしたか、あるいはその両方かのどれかです。
  
 id:sho_taが、「光市母子殺害事件、差し戻し公判の反応」をまとめてみたというエントリで、以下のように書いている。

視聴者および読者は闘技場の観客で、舞台にいる法曹関係者、被告、原告に向け、「殺せ、さあ殺せ!」と叫んでいる姿を見ているようです。

http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20070528#1180341898

 コロッセオでライオンと戦ったのはキリスト教*1とか、凶悪犯ではないものが含まれていて、一概に同一視してよいのかどうかはわからないけど、相手の主張も読み込まずに、非難と罵倒をしてしまう人間を見ると、「殺せ、さあ殺せ!」と叫んでいる、と見る向きが出るのもさもありなん。
 こちらのコメントで「こういう人間が支援しているという印象を受けることが、本村氏にマイナス効果にならないことを切に願うばかりです」と書いたわけですが、「民可使由之。不可使知之」 民はよらしむべし、知らしむべからず、であって、多くの大衆というのは、こういうものなんでしょうね。民主主義万歳だ。
 私は、本村さんは非常にインテリであると書きました。
 インテリが「殺す」と言い、莫迦が「殺せ」と叫んでいる状況です。私は、インテリの発言には興味がありますが、莫迦の絶叫には軽蔑します。*2
  
 私は先ほど「思い込みの誤読をする莫迦」の話をしましたが、もちろん相手の発言から、その発言の意図を想定することはあります。
 例えば、私がテラカオさんのところにしたコメントに対して、ブックマークコメントで「公開処刑とか簡単に口に出せる人々」というものがつきました。
 これはおそらく、何らかの批判であると思われます。
 たぶんこの人は、私やてらかおが「悪い奴は見せしめ的に公開で処刑にしてしまえ」と言っていると誤解しているのでしょう。
  
 そう、読み返せばわかるように、「見せしめ」は誤読なのです。
 まず、teraccaoさんの本エントリの該当部分について。

いわゆる「極刑」が世論や被害者の声をバックに量産されるような状況だけは勘弁して欲しい。まったくの余談だけれど、もし死刑存続を選ぶなら、死刑執行の日の一週間前くらいから「今週、死刑を執行します」というキャンペーンをやるべきだろう。「執行」の実態に関する情報を周知させてこそ、「司法」の部門における民主主義が達成されると思うからだ。

http://d.hatena.ne.jp/terracao/20070528/1180366777

 これは前提が「司法の民主化」となっています。
 この部分のてらかおさんの意図は、「もし死刑を望むのであれば、国民は国家の成員として、人を国民の手によって殺しているんだ」ということをもっと認識せよ、という主張であると思われます。
 つまり、殺す以上は殺すということをもう少し自覚できたほうがいい、という趣旨であることが推測できます。
 ならば、国民が「主権者としての殺人」を認識するには、その現場を見せるに勝るものはありません。
 よって、私やてらかおさんの主張としては、「司法の民主化」を考えるならば、今週死刑キャンペーン以上に公開処刑のほうがいい、ということになるのであって、少なくとも「見せしめ」的な「公開処刑」による国民娯楽を言っていることでないことは明らかです。
  
 さらに言えば、その直後に私は次のように書いています。

さらに言えば、死刑執行人ではなくて、遺族か、もしくは、裁判員制度のようにランダム呼び出しで、執行するというのが民主主義的じゃない?

http://d.hatena.ne.jp/terracao/20070528/1180366777#c1180372120

 これも、国民が国家の成員として、しかも主権者として、殺す以上は「死刑執行人」などという非人道的な役職を作って嫌な仕事を任せるのではなく、ランダム呼び出しで執行するほうが、自覚もする上に、民主主義的であるという主張です。
 つまり、完全に「司法の民主化」や「行政の民主化」を前提とした制度論の問題であり、明らかに「見せしめ」という反民主主義的な前近代的な話とは全く別次元の話であることは明白です。
 そして、てらかおさんは直後に賛意を示しているわけで、さらには直接民主主義と間接民主主義の話をしていますから、私の意図も思いっ切り伝わっているようです。
 てらかおさんは、裁判員制度直接民主主義最高裁判所裁判官国民審査が間接民主主義、という下敷きで考えていたと思われます。たぶん。「死刑判決」を出すのも、「死刑執行人」次に「法務大臣」に次ぐ、嫌な仕事ですからね。
  
 私とてらかおさんは、おそらく、主義主張としては真逆であるにもかかわらず、同じ結論に達するのは、これはイデオロギーの部分ではなくて、前提が決まった上でのロジックの部分であるからだ。
 つまり、この前提があるとするならば、論理的に考えれば結論としてこうなる、という話をしているに過ぎないからだ。
 逆に言えば、莫迦でなければ、同じ結論に達する、という言い方もできるかもしれない。帰結ですね。
  
 あと、インテリのてらかおさん宛だけど、民主化を進めるならば、「行政の民主化」として、せめてもの間接民主主義として、幹部官僚国民審査制度は必要じゃない?
 裁判員制度が導入されれば、司法よりも行政のほうが民主主義的統制が及ばない状態になるよね。いくら議員内閣制と言えども。
 そして「国防の民主化」の国民皆兵に行き着くわけだ。 

*1:国禁だった

*2:「殺せ」という人間の全て莫迦という意味ではないですよ