「らしさ」という規範が「ヒト」を「人間」にする

  
少し前から「女らしさ」をきっかけとして、「らしさ」というものが「かなり否定的な意味合いを持って」はてなで語られている傾向があった。
私はその「個性は大事だよー」的な、「らしさで私を縛らないで」的なものには、うっかり「自分探しの旅」に出てしまいそうな危うさを感じるわけです。
  
http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070530/1180501779
らしさを規定することに意味が見出せないのだが
  
id:b_say_soさんのところのコメント欄で、「らしさ」の必要性について話をしようとコメントを書き込ませていただきました。
お返事をいただき、その返事を書いていたら長くなってしまったので、id:b_say_soさんのコメント欄よりその続きを。
id:b_say_soさんのところに書いたのは、b_say_soさんが「インテリ」という属性にあるからです。
  
    
>「『人』という集合体」というのはどういう意味ですか?
  
いわゆる「人」として分類されている生物全体を指しています。
  
>よくわからんのですが霊長類うんたら間たらという分類ですよね,人間の分類と言うのは。
  
科学的分類によって、対象を「人間」であるかどうか判断するわけではないですよね。
例えば私がb_say_soさんと対人間として対話を行なっているけれども、b_say_soさんが遺伝子的に「人」のDNAを持っているかを確認しているわけではありません。また、もし持っていなくて実はスーパーサイヤ人であったとしても、私は知らずに「人」と見做して対話を試みるわけです。
あるいは対話のできない赤ちゃんであっても、痴呆症のおばあちゃんであっても、私はその「人」たちを「人」としてコミュニケートを試み、アプローチするわけです。
逆に言えば、私は「犬」に対しては、実はその個体は「人間」と同じ遺伝子を持っている可能性があるとしても、やはり「犬」としてしか扱わないわけです。
やはりそこには常に「らしさ」としてのフィクションが存在しているわけです。
  
>人間らしさの定義は今のところ曖昧ですが,最下層は「外界を知覚,認知できる」「外部対象(主に人間)と意思疎通を図ることができる」「予測しそれに伴った行動ができる」「自律的に行動することができる」などなどです。
  
その「最下層」ができない「人間」が世の中には大勢いるのです。
例えば、分裂症患者もそうであれば、植物状態の人間もそうですし、先ほど上げた痴呆症の老人や赤ちゃんもそうです。
この「最下層」からすら漏れる人は「人」ではないと言い切ることはできないでしょう。
私は、それらの「人」も、やはり「人」として接するわけです。
それはやはり「人」というフィクションをもってしか説明がつかないものであって、そこは「あの人は人間だから人間として扱う」というフィクションに乗る必要がある。
  
>「人間」は上の定義のよる「人間らしさ」はほぼ所与のものとして持っています。
  
そうではないのが現実なのです。
病気や年齢その他で「最下層」の「人間らしさ」を持っていない人も大勢いて、その「人」たちを「人間」と見做さないならいいですが、見做すのであれば、その根拠は「人間らしさ」というフィクションを通すしかないわけです。
そこでは、個別の「個体」が、本当にそれを有しているのかを問うことはしないのです。
  
逆に言えば、集合の大部分がその「らしさ」から外れるような状態になれば、全体を包括するフィクションとしての「らしさ」も崩壊することになります。
ならばその「らしさ」がある程度で強制性を伴うのも止むを得ないのではないでしょうか?
例えば、残虐非道な犯罪を行なったものに対して「鬼畜の人非人」と罵る行為は、その「人」に「らしさ」を求める行為であり、ひいては、他の「人」にもそうにはならないように社会規範で強制する意図を持っています。
  
>後天的に獲得するものの場合,環境などをパラメータとして様々な属性を得ることになります。それは人それぞれに違います。同じことはあまりないでしょう。全く同じになるというのは確率的にもかなり低いです。
  
私は「先天的」な部分はほぼ無視して差し支えないと考えていますが、逆に言えば、例えば日本語を母語にする、日本の文化や伝統に影響下の社会で育つ、という共通項が多ければ、「全く同じ」である必要はなくても、「共通する」部分が多いと見做されるのも当然と思われます。
私は、イスラムの社会に生まれていればイスラムの人間になっていたでしょう。しかし日本に生まれて「日本人らしさ」や「日本人の美徳」などというフィクションの強制により、それらの概念を身につけるわけです。
その意味において、社会からの「らしさ」の強制が、生物に過ぎない「ヒト」を「人」として、フィクションを与えているとも言えます。
つまり、「人」が先にあるのではなく、社会があってこそ「人」が生まれるのであって、その社会がなければ「人」は「ヒト」に過ぎず、他の生物との違いも存在しないと言えます。
  
で、人間を「らしさ」で分類するのではなく、その「個人」「個体」で判断すべきという点について。
これは極めて近しい、親密な人間であれば、個別認識をするのは合理的でもあり、そのような理解をしていくことになります。
しかし、それほど親しくない人間、あるいは知って間もない人間は、その属性や「らしさ」を前提に対話のチャンネルを探る以外に方法はないわけです。
であるならば、属性の「らしさ」と違う人がいる場合、初期の段階で面喰う人がいたとしても、それは当然のことなのではないでしょうか?
さらに言えば、自分はその属性の「らしさ」とは違うと思っている人でも、それは「個性重視」という社会のフィクションに踊って「自分は違う」と思っている人も多いだけであるからこそ、そのフィクションが崩壊しないのではないかと思っています。
  
つまり、
・「らしさ」を前提としたコミュニケーションの担保
・「らしさ」による「人間」の育成
・フィクションによる「最下層」より下の「人間」の救済
といった、非常に重要な点を「らしさ」が救っているわけです。「偏見」や「先入観」がね。
  
「らしさ」を規定することに意味もいっぱいあるわけですよ。
「らしさ」というものが、「ヒト」を社会的動物としての「人間」にしているわけですし、社会的関係性を円滑にする極めて重要な役割を担っていると言えるわけです。
私はむしろ、弊害のほうが遥かに少なく、必要不可欠なものであると考えています。
  
必要不可欠な「らしさ」と、弊害の多い「らしさ」を別に考えるべき、という話も出てくるでしょうが、必要不要は誰が決めるのかというと、それは「社会」しかないのが現状です。
切腹」が野蛮であったのか美意識であったのかを問うならば、今現在の「火葬」も野蛮であるのかを問わねばならないわけで、決めるのは、その場その時の「社会」なんですよね。