ululunさんへお返事

  
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070601
質問はこちら
  
  
回答1
  
判例主義というのが何故に使われているかというと、近代国家、近代刑法における「法の下の平等」というテーゼがあるからです。
例えば、ululunさんと木村拓哉さん(仮名)が、同じような動機で誰か一名を殺害した殺人事件を犯したとします。
キムタクはお金を持っててイケメンだから情状酌量までついて懲役三年で執行猶予付判決が出て娑婆にいるのに、ululunさんは死刑判決が出た。
同じ内容の事件でありながら、これは明らかに「平等」の原則に反しているわけです。
こういうことがないように、判例主義というのは重宝されています。判例主義とは、公平性を目的としているわけです。
  
ただ判例主義といっても、『十九歳少年・二名殺害・金品強奪』という、なした犯罪の罪状のみで判決が下るわけではありません。
犯行に至った動機や、その犯行に至る状況、犯行の方法、などあらゆることを、その事例ごとに鑑みて、そのうえで先例を参照に判決をすることになります。
事件の内容もわからないままには、先例も参照できないわけで、当然ながら審理は必要となります。
また、情状酌量の場合などは特に、データベースによる機械的な判断など不可能でしょう。
例えば、親殺しの事案などで、憎いから殺したのか、介護が面倒だから殺したのか、老いと病気で苦しんでいる親が忍びなくて殺したのか。介護が面倒というのでも、自分が遊びたいからなのか、介護疲れでノイローゼっぽくなっていたのか。ノイローゼっぽくなっていたにしても、それまでどれだけ介護に献身してきた実績があるのか、などなどあるわけです。
  
で、本事案は、判例主義で考えるならば、法務に関わるほとんどの人間が無期懲役にあると考えるでしょう。
検察の求刑死刑で判決は無期懲役が妥当である事案です。
これは私もそう思いますし、報道においても実務に関わる裁判官のアンケートか調査で、量刑相場は無期懲役が妥当であるとでていました。
では、何故に本事案が「死刑」判決が出そうになっているか、というと、

これは、ひとえに被害者の遺族である本村洋が、マスメディアにおいて、裁判所が死刑にしないなら自らの手で殺害する旨の、殺害予告で司法に対する脅しを行ったことにあります。
この状況が生まれた一番大きな理由は「本村がインテリであった」。これに尽きます。
被害者の遺族である本村が、二十三歳にして、法理学を踏まえて、世間の心と司法を揺るがす「脅し」をする能力があったという、これがなければ、今のような状態にはないいなかったでしょう。
被告人は、死刑ではなく、無期懲役であっただろうということです。

http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20061027#1161949334

という理由です。
これは、どういうことか言い換えれば、被害者遺族が世論を動かし、さらには司法を動かしたわけで、つまりこれは「法は平等に機能していない」ということであり、「法治主義」の中に「人治主義」が入り込んだとも言えます。
司法に対して、世論が影響力を及ぼすことは、ある意味で民主主義的なことであり、民主主義的であると同時に、一種の魔女狩りとも言えなくもありません。いわゆる「人民裁判」という意味でね。
なにしろ、本村さんの「脅し」を用いた活動により、本事案は世論の注目を浴び、こんな注目を浴びた事件で最高裁判所無期懲役判決を出せば、最高裁判所裁判官国民審査でヤバい可能性も充分過ぎるほどにあるわけで、最高裁判事を動かすには充分な力です。
それが、本事案が例外的であった理由です。
  
  
回答2
  
本村さんの学歴については興味が無いので知りません。インテリというのは知的である、知識人である、という意味で使っております。頭が良い、でも良いでしょう。
裁判官に与える影響というのは、世論を通じてのことです。それは、ほぼ既に上に書きました。
まず「被告と原告」とありますが、刑事事件ですから原告は国です。国家と私人間(国家に身柄を拘束されている被告人)のものであり、原告は被害者遺族では有り得ません。
ましてやこの事件は殺人事件であり、被害者当人は二名とも死んでおります。被害者遺族も、傍聴席にしかいられません。
ただ、被害者参加制度というものが来年あたりにも導入されるので、蚊帳の外ではなくなりますが、飽くまでも原告は国家であり、つまりは検察です。*1
  
で、本村さんはマスメディアを通じて、世論を動かした。

法理学を踏まえて、世間の心と司法を揺るがす「脅し」をする能力があった

http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20061027#1161949334

しかし、ここには大きな問題があります。
法の下の平等」が成り立たないことは、この事件の被告人に対しての判決による死刑のことだけの問題ではありません。

被害者の遺族が本村のようなインテリであった場合は、被告人は死刑になるのに、本村のようにインテリでなかった場合には、被告人は死刑にならない、ということです。

http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20061027#1161949334

死んだ被害者がいくら被告人を死刑にして欲しいと思いながら死んでいっても、遺族が莫迦であれば、無期懲役なんですよ。
あるいは、身寄りのない夫婦が二人とも殺されて、遺族が残らない場合、無期懲役だったんですよ。
本村洋という頭の良い遺族が、勇気を持って真摯に活動をしたからこそ、死刑判決が出る事になるでしょう。それは立派なことではあるんですが、では遺族が莫迦だった場合や、遺族がいない場合、その真の被害者は報われないことになります。
法の下の平等」が成り立っていないわけです。
まして莫迦な遺族が「もう恨んでいません。減刑してあげて欲しい」などと言い出したりしたら、もうたまったもんじゃありません。
  
遺族にインテリがいる場合と、遺族に莫迦しかいないか、遺族がいない場合で、判決内容が変わってしまうことの是非を考えなくてはいけません。
  
  
回答3
  
近代国家の近代刑法は、特に刑事事件についてですが、国家と私人の間で行なわれるものです。
国家とは、原則的には暴力装置の独占という権力の源を持っているわけで、それ故に、その権力を濫用させない*2必要があり、その鎖が憲法です。
故に被告人という「権力に拘束されるもの」には「人権」が発生し、守られることになっています。
民主主義は、常に無駄で煩雑な手続きを必要としているのです。例えば選挙のようにね。
  
既にほぼ上に書いておりますから端折りますが、事件の判例は、ただ「罪状」だけで決めるものではありませんし、また私は判例のみで判決が下るとも書いておりません。
また、判決が下ったのなら、粛々と執行されるのは、法治国家であり民主主義の手続き論としても、本来は行なわれるべきでしょう。その意味では、死刑の執行は半年以内となっているのですから、執行するか、制度を改めるか、どちらかをするべきです。
  
今回が特筆すべきなのは、遺族がインテリであった故に、世論が動かされた、ということが特殊であったのです。もちろんタイミングの問題もありますが。
  
罪刑法定主義において、殺人罪の最高刑は死刑ですから、死刑判決も当然ながら法の範囲内ですが、これまで無期懲役が相場であったものが、この件から死刑になるというのは「平等」とは言えないということです。
本村さんが、インテリではなく、活動もしなければ、無期懲役だったことは間違いありません。
もし死刑判決が妥当であると考えるならば、これまでずっと不当な「無期懲役」の判決を垂れ流していたということになります。そして、国民はそれをずっと見逃していたということになります。
本村さんの奥さんや娘さんのように、同じように殺されながら、被告人が無期懲役という量刑相場で、早ければ二十年そこそこで娑婆に出てくる、という事例があるわけです。遺族が本村さんのように超人でなければ、そうなっていたのです。未成年だからもっともっと早いかな。
  
もし、事後立法的*3に、恣意的に急に判決を重くすることが「平等」に反すると思うのであれば、いついつ以降に行なわれる殺人などの凶悪犯罪に対して、死刑などの重罰をもって厳重に処罰していく、という方針を開示するのが望ましいでしょう。
ただ繰り返しますが、罪刑法定主義において、殺人罪の最高刑は死刑ですから、死刑判決も当然ながら法の範囲内ですけどね。飽くまで「平等」の原則を遵守するならば、のことです。
  
こちらでteraccaoさんが書いていることも、近代刑法における「司法の平等」についてです。
マスメディアや世論、そして遺族の活動で、司法が影響されるのは、法治国家として「平等」であるといえるのか、ということです。
言っておくと、私はid:teraccaoさんとは、「イデオロギー」的に全く異なる立ち位置にいるので、考え方は全く異なるのですが、この話の前提は、法治国家や近代刑法を選択している日本国の原則の問題です。
  
あと、刑罰が犯罪者を更正させるためのものではないのは、これは「思想信条の自由」の原則のためです。
例えば、オウム真理教事件新実智光。ミラレパ正大師ですが、奴は死刑判決ですから関係ないのですが、反省は全くしていません。正しい行いであったといっています。
例えば同じように、ひとりを殺して十五年の判決を受けた男が、獄中でも「宗教的に正しかったし、娑婆に出たらまた誰かを殺す」と宣言している場合、刑期の十五年を過ぎたら、それでも釈放しないといけません。
国家権力が、その宗教の教義を棄てるまで、身体を拘束するということは原則できないわけです。
  
  
こちらからもひとつ質問があるんですが。
  
「説明をしてください」とか「私にとっては全くもって未知の分野の事であり、調べようにも調べる手がかりすら無いが故の質問とご理解ください」と言いながら、
>ネタにマジレスしちゃったけど取り敢えず釣られておく。
と書くことについて、ご自分ではどのように考えているのでしょうか?
そんな無礼をしてまで「釣られないぞ」という自意識ゲームで「負けない」ことにこだわりたいのですか?
そうだとするならば、なんかいろいろと大変そうですね。

*1:被害者や遺族も法廷範囲内で求刑可能

*2:リヴァイアサンを縛る

*3:比喩ですよ