生きていた証に
あまり映画は見ないのですが、DVDをレンタルして『ただ、君を愛してる』を見ました。
これを見た理由は、心の恋人id:sweet_nanaが「奈々は宮崎あおいに似てるよ」とあまりに言い張るから、しっかり洗脳されて、レンタル店でDVDのパッケージを見て、なんとなく借りてしまった。
ストーリーに関しては、伏線を張って、無難に落ち着くあたりはとても面白い。ただ、病気などが御都合主義的に過ぎるきらいがあるけれども、そんなものは余裕でぶっ飛ぶぐらいに宮崎あおいが可愛い。
宮崎あおいがとにかく可愛くて、非常に可愛くて、まぁなんというか無茶苦茶可愛い。それだけで見る価値はあるぐらいに可愛い。もう結婚したけど。
さすがに明け方の横断歩道での ⊂二二二( ^ω^)二⊃ブーン には、ちょっとやりすぎで引いたけれども、問答無用で可愛かったし、上原美佐のくびれは凄かった。
ストーリーに関しては、御都合主義的に綺麗に小さくまとまっていて、とても良かったわけで、ここでは特に触れない。
私が考えさせられたポイントは、若干ネタバレになるけれども、「死に逝く者が、好きな人の心の中にいつまでもいたい」というわがままをどう考えるか、だ。
映画自体は、ファンタジックな純愛ラヴストーリーであるため、そのわがままを、とても美しいものとして描いてあるわけだが、実際にはやられたほうはたまったものではない気がする。
何年も片思いをして待ち続けたうえに、さらに死せる孔明にしばらくずっと走らされるわけである。無茶苦茶だ。
しかし、その無茶苦茶も宮崎あおいが死ぬほど可愛いために、まぁいいか、と思わされてしまうわけだ
このストーリーでは、相手に死ぬことも死んだことも知らせずに、相手の心の中で生き続けたいと願う。
個人的な感想をいうならば、このような事情で死ぬんであれば、私はそのようなわがままは許すだろう。私が愛し、私と関係を持った相手であれば、私の人生を狂わされようとも、それはきわめて些細な問題であり、私はむしろ喜んで受け入れるだろう。
私なんかの心の中で生き続けたいと思ってくれることに感謝すらするだろう。
そして、このストーリーの主人公も、それを喜んで受け入れているのであるが、ただ、私は一つ受け入れられないことがある。
やはり、死んでしまうのであれば、死ぬ前に、きちんと会っていてもらいたい。
きちんと話をして、どんな姿であれ会ってくれて、死んだことを知った上でなお、ずっと心の中で生きていてもらいたいとお願いしたい。
死んでいるのに生きていると騙されるから許せないのではない。会わなければ、もう会えなくなってしまうのに、それでも会わないことが受け入れ難いのだ。一つでも思い出を増やして欲しいのに。
私の人生など、極めてどうでもいい瑣末ごとに過ぎなくて、革命や信仰や恋愛などの、それらの高揚感の前には霞んでしまって、いつ狂わされてもかまわない程度のものであり、今はたまたま革命にも宗教にも高揚感を覚えないから日常生活を送っているに過ぎない。
愛する者との恋愛において人生を狂わされるのなら、願ったり叶ったりだ。宮崎あおいに愛されるのであれば、全く悪くないね。
どのみちどこかで泣くわけだ。
なら、思い出を少しでもたくさん作って、それを思い出すたび、至福の後に涙が溢れるとしても、その思い出とともに生きたいと思うけどなぁ。
そして、たった一人でも、私如きで幸せに思ってくれる人がいるのならば、それこそ、これ以上ない喜びだと思うんだけどな。喜んで籍まで入れちゃうだろう。
まぁ、それが一般的ではないとは思うわけだけれども、また私が死ぬ側であるならば、どのような行動をとるのかわからないけれども、籍は入れずに相手に詫びながら一緒にいるんだろうか。
せっかくなら、もっと楽しそうに屈託なく一緒にいるほうがいいんだろうが、まぁ私は映画になるほど強くはないということなんだろうな。まぁ、男で屈託も無くはしゃぐのもそうとう非常に見苦しいわけだが、謝り続けるよりはなんぼかマシだろうな、やはり。
「死に逝く者が、好きな人の心の中にいつまでもいたい」というわがままは「生きていた証」なのかどうかはわからないけれども、愛した人に忘れて欲しくないというわがままは強いなぁ。私が女々しいのかもしれないけれども。まぁ、そうとうに女々しいか。
私は、自分が被るそんなわがままや迷惑を、素直に嬉しいと思ってしまうからこそ、相手にもわがままになるのだろう。しかも「ありがとう。ごめんな」を繰り返しながら。タチが悪い気がするが。
まぁ、こんなことを「樹海に行きます」に「行ってらっしゃい」と返した私が言うことでもないんですけどね。