これを書いた人を責めるわけではないけれどね

  
 id:b_say_soさんのエントリを読んで、そのエントリ自体には特にコメントをする気はなかった。

 しかし、その後、id:REVさんからブックマークコメントがついた。

ニュートンの法則は嫌いだ。重力定数は選べないのに重力からは逃れられないと脅迫されるようで嫌いだ。極論だと思われるんでしたら今すぐ風に落ちる林檎に手を差し伸べてください。拾ってください。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070915/1189870062

 私はこれを素直な問題提起だと読んだ。
 統計的にそういう場合が多いとして一般的に「事実」と言われていることに対して、「脅迫されるようで嫌いだ」という言説がどれだけ有効かという問題提起としてだ。
 「科学的」に、この詩に対して否定したいならば、「統計的にそのような事実はない」という証明をするしかない。
 あるいは「事実」はあるが、悪いのは親や子供本人ではなく社会である、という主張で、原因の主体を転嫁する(ズラす)という技もある。
  
 たとえば「スラム街出身の黒人による犯罪率が高い」という統計がある場合、それが「黒人差別を助長する」という理由では、その統計事実を否定はできない。
 ここでは「黒人差別反対」という信仰告白と、あるいは「統計」から傾向を見つけ出す「科学的」な思考の、どちらの価値観を優先させるかという、非常に重要な問題提起を生むことになる。
 しかし、逃げ道として、社会による差別と貧困が黒人の犯罪率を上げているのだ、という反論も行われている。そして一定の信憑性を持って語られているし、説得力も有している。だがそれは原因の主体を変えているだけで、「統計的事実」が変わっているわけではない。
 ここでもしも、遺伝子や脳の研究が進み、邪悪な思考というのが遺伝的に「黒人に多く備わりやすい」という「科学的」な「事実」が発見されたとき、これはどう解決したらいいのか?
 「科学」を優先するのか、「黒人差別反対」という宗教を優先させるのか、もはや「社会」に原因の下駄を預けるという逃げ道の猶予はない。
 科学を優先するのか、政治的妥当性を優先するのか。
 REVさんのニュートン力学は、その点を指摘している。
 「科学的事実」の前に、政治的妥当性という「宗教」は、どこまで有効なのか?
  
 アメリカでは進化論を信じていない人が少なくない。
 その理由は、聖書に人間は神が創ったと書いてあるからだ。
 ここには、「科学」よりも「宗教」を取る、馬鹿馬鹿しいまでの清々しさがある。
 先の詩の背後にある「暴力的な親に育てられた子供は暴力的になりやすい」という「統計的事実」を否定するならば、その「統計」を再追試するか、あるいは「宗教を取る」と高らかに宣言するか。
 その「宗教」を覚悟を持って選び取るならば、私は馬鹿馬鹿しいまでの清々しさを感じるのだろうが、どうもその覚悟が感じられない。「宗教を選ぶ」という自覚があってのこととは思えないからだ。
 私自身は、自然科学と社会科学は対等には考えられないし、「暴力的な親に育てられた子供は暴力的になりやすい」というテーゼにも「統計」としては若干の眉唾は感じるけれども、それでも「DQNの子はDQN」という世間知は持っているし、「人間」は環境が作る、という真理も知っている。
 「本当の私」というものは、「生来の私の資質」などという架空のものの影響などは無視してよく、「私」のほとんど全てを周りの環境や状況が作っている事を知っている。
 「自我」というものが「私」固有に備わっているなどと考えるのは、「近代」に生まれた「宗教」であることは、それなりの阿呆であっても少し考えればわかることだ。
  
 REVさんがニュートン力学という「科学的事実」から逃げられないのと同様に、「傷つけるから嫌だ」では「統計的事実」から逃げられないということを皮肉ともとれるロジックで書いた。
 それに対してb_say_soさんはこう返し、id:teraccaoさんも続いた。

2007年09月17日 b_say_so 人間性を疑う
2007年09月17日 terracao 人間性、というか、バカなんだからしょうがない。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070915/1189870062

 私は逆に、最高学府の院生ってバカしかいないのか? との皮肉が頭に浮かんだ。
 別に「科学的事実」や「統計的事実」よりも「宗教」を選ぶことはあっていいし、あって当たり前だし、私自身もそうありたい人間だ。
 しかしだからといって、自分が信仰している「宗教」の意に沿わない相手に対して「人間性を疑う」とまで言うのは、悪いとは言わないが、このポストモダンを経た時代に、それなりのことではある。
 自分の「宗教」を根拠に他者に「人間性を疑う」とまで書くならば、そう書かずにはいられないトラウマがあるのだったら、それを説明ぐらいするのが、人間性をも否定しようとする相手への礼儀だと思う。
 なんか、触れて欲しくないトラウマがあったんだという仄めかしだけで、それを根拠にして「私は傷ついているから私には触れてくれるな。しかし私は相手の人間性の否定もする」というのは、私には卑怯に映る。
 さらには、追記やコメント欄でも、怒りを表明し、何故かコメント欄も凍結されている。しかも「死にたい」という言葉まで使われている。
 先のエントリでも触れたから書くが、私もはしごたんと同じやり方だと思った。
 しかも、超高偏差値で、しかも美人(推定)という、比較的にかなり強者の人間が使う「私は傷ついた」というアンタッチャブル戦術は反則だと思う。
 自分は他者の人間性まで攻撃するけど、自分への攻撃は「私は傷ついてる」から黙ってくれ、というのは通らないだろう。そういうネタキャラならともかく。
  
 打たれ弱いが故に開き直ったり拒絶したりしたくなるというのは、私自身も弱いが故にわかるのだが、ならばどうして自分は他者の人間性を否定するような言葉を吐くのだろう?
 自分は、考えに異論を呈されただけで傷つくのに、他者には人間性に言及するのは、元の詩の内容を踏まえた場合にどうであるのかという下世話な疑問だって呼ぶだろう。
  
 誤解のないように言うと、私は「人間性を疑う」と書くなと言っているわけではないし、むしろどんどんと書けばいいと思っているわけで、さらに言えば「人間は平等であるべきだ」という「宗教」はあっていいと思うし、その「宗教」への狂信的盲信が高じて「事実」の方を否定することだってあっても良いと思っている。
 しかし、自分は罵倒や非難や皮肉を言うけれども、相手に言われることをことさらに「傷ついた」と主張したり、反論ではないかたちで相手の口を封じようという姿勢や開き直りはどうかと思う。もちろん開き直るのは自由であるが、それに付き合って口を噤まねばならない道理はない。
 「傷ついている」とアピールした者勝ちの空気はどうにも性に合わないので、空気を読んだ上で従わないつもりでブックマークコメントを書いた。
  
 すると翔太からクレームが来た。
 「ネガティヴなブックマークコメントをつけるな。それぐらいなら反論エントリをきちんと書け。ブックマークでネガティヴなコメントを残すのは卑怯者のやるみっともない振る舞いだ」
  
 私は以前、b_say_soさんの意見に反対意見のエントリをあげたことがある。
 別にb_say_soさんの人格や人間性を批判する内容ではなく、反対の意見を主張したものに過ぎない。
 そのときに、b_say_soさんは自らのサイトをプライベートモードにしたことがあった。私への返答のエントリがあったにもかかわらず、プライベートモードで肝心な私が読めないという不可思議な状態だった。おかげで議論はそこまでで止ってしまっているが、今は読めるようなので私のほうから沈黙したかのような状態になっている。
 その際に「普通に議論なんだから反論すれば良いのに、プライベートモードにしたことで『瀧澤に傷つけられた』と悪者にされて大変だね。ザマーミロ」というメールをいただいた。
 私は「私が原因ではないと言っているようですよ」と返答したのだが、さらに「原因ではないと言うのならタイミングを考えないとね。ちゃんと悪者にされてるよ。ザマーミロ」と追い討ちをかけてきた。
 そういう出来事があったので、私は翔太に「またプライベートモードや閉鎖されたらかなわんからエントリであげようとは思わない。コメント欄も閉鎖されているからブックマークコメントしかないだろ」と返事をした。
 しかし翔太は「プライベートモードになったことがあったとしても、それでも正々堂々とエントリで書くのが筋ではないか。相手に関係なく、エントリでやって欲しい」と言う。
 正直、私には賛同できない*1部分もあったのだが、はしごたんのことも書いたし、b_say_soさんにもアンタッチャブルにはなって欲しくないので、エントリで改めてあげることにした。
  
 「人間は平等であれかし」という希望は、人権主義という宗教には当然であるが、環境どころか親すらも選べない「事実」の前には、その希望は儚い。
 母語や文化を含め、人間は環境によって作られ、環境から逃げることは容易ではないという「現実」を前に、宗教的希望を根拠に抗ってみても虚しさは残る。
 それぐらいならば「似た環境や境遇でも立派な人はいる(チャンスはいくらでもある)」という希望に縋りながらも、「育ってきた環境も含めて自分である」と認めたほうが建設的に思える。
 「全て環境が原因である」と永山的に考えることもできるが、私としてはそこまで近代主義者でもないので、実務的手段として、責任は個人に帰結させてしまえば良いと考える。
 「運が悪かったね」と。

*1:過去のことがあるのに「正々堂々とする必要があるのか?」という点