愛する人に出会いたい

  
 合コンにまつわる話で、草さんがエントリをあげていて、それに対して翔太がエントリをあげている。
 草さんは『「愛」とか「恋」とか「尊敬」というのは、何かをするときに副次的に得られるものであり、それ自身を目指すものではない』という論旨で、翔太はそれに対して「本当は内心でみんなモテたいと思っているくせに、モテる努力して何が悪い。本当は自分だって少しはやっているくせに。音楽をやって小首傾げてるのは、少しはモテたいという理由もあるんだろ」と斬って捨てている。

愛する人に愛されたい」という欲求に興味がない人がそれなりに、当たり前にいるだろうことは想像できる。

http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20070917#1190037809

 この部分からは「いるというのなら名乗り出てみろ。ほらほら。いないだろ? みんなモテたいんだろ?」という嫌味な姿勢がうかがえる。
  
 残念ながら翔太の言うように「モテたい」という欲求はほとんどの現代日本人が持っているものであるし、その努力の方向性というのは、世間知で考えれば大体わかるものである。
 少なくとも、一流企業に就職するには、いい大学に入ることがかなり堅実な道であるという程度には、方向性は見えている。
 「いい大学に入ったからといって、確実に一流企業に入れるとは限らない」からといって、学業を疎かにするというのは、一流企業に就職したいという目的に対して、愚の骨頂である。
 確実ではないにしても、可能性があがることをするのが、理想論としては、明らかに正しい。
  
 「愛する人に愛されたい」からと、愛されるための努力をあらかじめしておくことは、当然のことと言える。
 「愛されるための努力」というのは、基本的には万人に好意を受けられるような振る舞いをしたり、ある程度特定の相手を絞られれば、その人が喜ぶことを想像し、その人にとって良いと思われることを誠実にすれば良い。
 一般に好感を持たれる振る舞いをしていれば、それはたいてい「愛されるための努力」と繋がっているものだ。
 草さんの言うように、スポーツや仕事や研究などに打ち込んでいる中から、副次的に「モテ」や「尊敬」というのが得られるという場合はもちろんあるけれども、逆に、「モテ」たいとか「尊敬」されたいという要求から、普段の生活に良い影響を与えることも、全く否定するものでもないし、むしろ素晴らしいことと言える。
 ストーカー被害というのもあるけれども、基本的には、他者から好意を受けることは喜ばしいことである。だから人から好かれたいと願う姿勢や心情は、大いに理解できる。それで何か弊害が生まれるならば、それは「嫉妬」が関与しているか、やり方が下手なのか、どちらかであって、原因はその動機にあるのではない。
  
 誤解のないように蛇足すると、言うまでも無く、「恋愛」とか「モテ」というのは、数あるうちの欲求のひとつに過ぎなくて、常にこれがトップのプライオリティを持つというものではありません。他の価値観を優先することなど、当たり前のこととしてざらですよ。
 こんなことを書くと、恋愛に夢を持つロマンティックな女の子には嫌悪されるので、モテたい人は言わないほうが吉です。
  
 で、その一方で私は、心情的には翔太よりも草さんに近い。
 それは自分がモテるための努力を放棄しているからという理由も大きいのだが、それよりも、恋愛に対するスタンスが翔太よりも草さんに近いからだろう。
 私は、原則「彼女を探す」とか「恋人を作りたい」とか「恋愛がしたい」とか「出会いが欲しい」と思わないからだ。
  
 「彼女を探す」としたら、デパートのおもちゃ売り場で迷子になってびーびー泣いているところを探すとか、警察に失踪届けを出すぐらいであって、未だ見知らぬ女性と恋人関係を作りたい、という希望は無い。
 カップルじゃないと入りにくい場所に入りたいという時以外、別に「恋人がいたらなぁ」とすら思わない淡白質な人間なので、「恋愛をしていたい」とか、そのための「出会いが欲しい」などとは、考えたことも無い。
 「この人と一緒にいたら幸せだろうな」とか「この人と一緒にいたら楽しそう」とか、この人と一緒にいたいと感じるときに、ようやく「この人」が欲しくなるのであって、敢えて「この人」を作りたいとは思わない。
  
 私がオフ会には参加しても、合コンにはでないのは、私が出会いを求めているのではなくて、会いたい人に会いたいからだ。オフ会の参加者に会いたい人がいたら参加する。誰が来るかはわからないけど出会いの可能性があるからと言われても参加しない。
 「会いたい人」を作りたいわけでも増やしたいわけでもない。
 すでに会いたいと思っている人に、会いたいと思うだけだ。
  
 しかし翔太は、合コンも愛する人に愛されたいからするという。
 もはやそれは「愛する人ができたときに愛されたい」という範疇を超えて、「愛する人を作りたい」という、私にとってみたら歪なところまで逝ってしまっている。
  
 「愛する人ができたときに愛されたい」という理由で、出会う前から、有利な状況を準備することは効率的で賢い判断だと思うが、積極的に「愛する人を作る」というのは、理解しがたい。
 私はどうしても「愛する人」は勝手にできてしまうもので、好きになっちゃったらしょうがないのであって、自分から積極的に作るものではない、という考えがあるからだ。
 少なくとも、「愛する人に愛されたい」というのと「出会いを増やして愛する人を作りたい」というのは、私には全く別次元の問題に思えるし、「出会い」を求める合コンが、「愛する人に愛されたい」という目的の範疇に入るとは到底思えない。
 「愛する人ができたら愛されたい」というのと「常に愛する人がいて愛されていたい」という欲求では、「愛する人に愛されたい」という意味合いが全く異なっているように思う。
  
 私が草さんの「出会い」を目的化してしまう「合コン」というシステムに嫌悪感を抱くのは当然のことという主張に賛同するのは、「愛する人」は積極的に作るものではなく、勝手に意とは別に愛してしまうものだという愛の神話にロマンを持っているからだろう。
 「愛する人に愛されたい」から合コンに行くという奴は、「恋人が欲しい」だけであって、「愛しているその人自身」が欲しいわけじゃないんだろ、という蔑視から、嫌悪感を抱くわけだ。
 好きな人を恋人に欲しいのであって、恋人が欲しいから出会いを求めるわけではないのだ。
 だから私は合コンに参加しようとも思わなければ、ナンパをしようとも思わない。
 恋愛するためにわざわざ出会わなくても、たまたま出会った中から、一緒にいたい人ができたならば、恋愛をすれば良い。