腐れインテリの病

  
 東大ならともかく、三流の公立や、特に酷いのは三流私大の文系の、その中でもわりと「インテリっぽい」タイプの人間と言うのは、文章を書く際に非常に悪い癖を持つことが多い。
 これを私は「腐れインテリの病」と思っているわけですが、その文章から非常に嫌な癖が散見されるのです。
 これは三流私大にすら入れないような低偏差値の人間は気付きもしないことなのですが、文章の中に暗号を散りばめるのです。
 その暗号の目的というのが、突っ込まれたときのためのエクスキューズ、という非常に器の小さいものです。
 「一応そこはわかってやってるんだからね」というポーズを見せておかないと気が済まない習性が、自然と身についてしまっているわけです。
  
 その「腐れインテリの病」の、その最たるものが鉤括弧です。
 「」←これです。
 三流私大にすら入れないような低偏差値の人がこの世の中にどれだけ存在しているのか知りませんが説明しますと、この「」でくくると「いわゆる」という意味合いが付帯されます。
 その「いわゆる」に、何の意味があるかというと、「自分がそうだと認めているわけではないけど、世間一般でそう言われている『いわゆる』それ」という「私がそう認めているんじゃなくて、世間がそう言ってるんだよ」という腰の引けた姿勢です。
 つまり「その妥当性を問うと話が進まないから、とりあえずそれが『そうである』と仮定して話を進めますから、そこは突っ込まないで」という意図を込めた暗号になるのです。
  
 たとえばこのページなんかを読むと、「事実」「科学」「統計」「社会」「宗教」「人間」「自我」「近代」「現実」、もう何にでも括弧で括って棚上げしてます。
 なんでそんなことをしなければいけないのか、と疑問に思うかもしれませんが、そうしていないと不安なのです。そういう病気です。
 ここは仮にいわゆる「世間」で言われている言葉を使っていますが、私が不用意にそれを認めたわけではないんですよ。だから突っ込まないでください。
 そんなメッセージを込めているわけです。
 つまり「事実」とか「科学的」とか「統計」とか書いてあっても、それは本当の事実なのか、本当に科学的なのか、本当に統計として成立しているのか、それは私の知ったことではない、と暗に言っているわけです。そこに突っ込むのは無粋な奴か、三流私大にすら入れないような低偏差値の人か、どっちかだと思われるよ、という脅しです。
  
 そのうえで、さらに屋上に屋を架すような病状もあります。たとえばこのページ

私自身は、自然科学と社会科学は対等には考えられないし、「暴力的な親に育てられた子供は暴力的になりやすい」というテーゼにも「統計」としては若干の眉唾は感じるけれども、それでも「DQNの子はDQN」という世間知は持っているし、「人間」は環境が作る、という真理も知っている。

 自然科学と社会科学の違いについて言及し、さらには、元になったテーゼにも「統計としては若干眉唾」としながら、根拠を世間知に持ってくるという念の入れよう。
  
 自然科学と社会科学の重要な大きな違いというのは、尋常小学校卒の私が説明する話でもないんですが、「追試験」「再現可能性」になります。
 極論で言ってしまえば*1社会科学というのは、自然科学で言うところのいわゆる「科学」とは全くの別物です。
 実験で同一の現象が再現されることが重視される「科学」において、社会科学というのは、そのほとんどが再現可能性に欠けている、と言わざるを得ません。
 追試験で必ずしも同じ結果が出るとは限らないというのは、自然科学的な「立証」ができないわけで、そこでは「説得力」勝負になる。
 精神分析心理学経済学ジェンダー論進化論、どれも「統計」という「科学的手法」は使えても、再現性という「科学」の前には弱いし、眉唾感が否めないものも少なくない*2
 社会科学なんかは眉唾で、世間知よりも信用できなかったりするよね、ということを言っているわけです。
  
 第三者の「引用」を使うというケースもよく見受けられます。たとえばこのページ
 REVさんのブックマークコメントから、ということで、「これは自分の主張ではなく、REVさんの主張を私が読み替えるならば」というスタンスで、自分の身を守るやりかたです。
 この暗号がわからない三流私大にすら入れないような低偏差値の人は、引用部分に対して否定的な反論を、引用元ではなくて引用者に向けてきたりしますが、そこは低偏差値のご愛嬌。笑ってあげればいいわけです。
 そして、自分とその第三者との違いを一応は言及しておく。言及した上で、さらにそれをかぶせるとどうなるかを書きます。

ここでもしも、遺伝子や脳の研究が進み、邪悪な思考というのが遺伝的に「黒人に多く備わりやすい」という「科学的」な「事実」が発見されたとき、これはどう解決したらいいのか?

 自然科学と社会科学の違いがある引用元を、大脳生理学や遺伝子研究の「科学的レベル」に当てはめることによって、第三者経由で突っ込まれる部分にまで手当てをしておく気の小ささが見て取れます。
 ここには、引用者に「自然科学と社会科学は違う」という突っ込みは見当外れだからするなよ、という暗号メッセージがあるのです。
 しかもこれは、次に出てくる「前提」という技も使っています。
  
 三流私大にすら入れないような低偏差値の人が見落としがちな暗号に、「前提」というものがあります。
 「もしも○○の立場で考えるならば」というものです。あるいは「○○だと仮定した場合」などです。たとえばこのページ

こうした認識に立ってみれば、「こう育てればこう育つ」というような教育マニュアルや奇麗事のウンコポエムに、たいした価値が無いことは明らかだろう。

 このエントリは全面的に「こう考えてみたらどう?」というスタンスに立ち、さらには「こうした認識に立ってみれば」と「仮定の前提条件に限定した上で」語られています。ここに「自分はこう考える」という主張は一切入っていません。三流私大で勉強すればこれぐらいのことはできるのです。
 小首を傾げながら「こんなのあるけどどう? 面白いでしょ?」とやれば、反論を受けても「俺はその立場じゃないし」とか「仮定の話なのに前提を変えられてもね」と無傷で返せるのです。
  
 斯様に「腐れインテリの病」は有用性があります。
 まだ病気になっていない人は、暗号を使ったり解読したりできるよう、三流私大で学ぶが良いかと思われます。

*1:この表現も「腐れインテリの病」の一種

*2:この表現も「腐れインテリの病」の一種