「問題提起」として成立しているか否か

  
 先日のb_say_soさんのエントリについて書いたエントリ書いたエントリに、予想外の反応が多くあったので面を喰らいました。
 面を喰らったので、触れるつもりはなかった最初の「詩」についても、真面目に説明をしてみようかと思います。

元記事 これを書いた人を責めるわけではないけれどね
ブクマ はてなブックマーク > とーびーらーんぶしー - これを書いた人を責めるわけではないけれどね
みんなで精神分析っぽいことを言うとわりと幸せになれるかもよ(教育と因果性)
これを書いた人には興味はありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。
統計的な事実を何も考えずに個別のケースに当てはめるのは間違ったやり方なのだ
簡単な説明
  
 まずその前に、先のエントリで私自身が書きたかったことは、大野さんのご指摘の通り、「自分は他者の人間性まで攻撃するけど、自分への攻撃は『私は傷ついてる』から黙ってくれ、というのは通らないだろう」という点です。
 その部分に対しての意見は、いくつかブックマークコメントにあります。

Masao_hate   たった一言にずいぶんみんな敏感に反応してるなぁ。僕は逆に、id:REVさんの人格を疑うくらい、id:b_say_soさんの好きにさせてやんなよ、とか思ったけど。
feather_angel   主旨ずれだが、はしごたんさんは「芸」の域なので一緒にして欲しくないなぁ/びーさんの気持ちは分かるんだけど傷つきたくなければ学習するべきだとは思う。でもするかしないか自由だししなくても全然いいよね?

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20070923%231190702682

 この「好きにすれば良い」し「自由」だというのは、私自身、エントリ内にて書いていることです。

誤解のないように言うと、私は「人間性を疑う」と書くなと言っているわけではないし、むしろどんどんと書けばいいと思っている(中略)もちろん開き直るのは自由であるが、それに付き合って口を噤まねばならない道理はない

http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20070923#1190702682

 「むしろどんどんと」書けばいいのかは議論の余地はあると思いますが、私はどんどんと書けばいいと思っています。
 そして、「人間性を疑う」と好きに書けば良いように、また、その人を傷つける反対意見もあって良いと言うのが、私の主張です。
 その反対意見に対して、反論ではないかたちで相手の口を封じようということがあった場合、それに付き合って口を噤まねばならない道理はない、という話です。
 「人間性を疑う」と書くのも自由だし、傷つく振る舞いをやめないのも自由だけれども、その場合には、こちらにも「傷つけかねない振る舞い」の自由は担保されるだろう、という話です。
 あと、蛇足ですが、私がメタメタのブックマークコメントまで追っかけて書いているのは、b_say_soさんがツィッターにおいて、私の主張を誤解している内容の愚痴を書き込みをしていたので、その説明のために書いたものです。
  
  
 さて、いよいよ元の「詩」についてです。
 私が今回の反応で面を喰らった理由と言うのは、多くの人が、私に反論するつもりで書いているであろうに、私の主張を裏打ちする内容を書いているからです。
  
 先のエントリで、元の「詩」に関わる部分で提示してある主張は、以下のものです。
・REVさんのコメントは「問題提起」として成立している
・詩を否定するには「統計的事実」を否定するか「宗教」を選択するかしかない
  
 先のエントリを読み返していただければわかるように、私自身の考えとして、元の「詩」の内容が、「科学的事実」だとは一言も書いていません。
 むしろ、社会科学や「統計」に否定的ニュアンスで書いてすらいます。
 「科学的」であることよりも、「世間知」としての受け取りのほうに、説得力を感じているほどです。

私自身は、自然科学と社会科学は対等には考えられないし、「暴力的な親に育てられた子供は暴力的になりやすい」というテーゼにも「統計」としては若干の眉唾は感じるけれども、それでも「DQNの子はDQN」という世間知は持っているし、「人間」は環境が作る、という真理も知っている。

http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20070923#1190702682

 にもかかわらず、多くの人が私に反論するつもりでか「統計的事実」を否定する考察を行っています。別に誰も「科学的事実」だという主張などしてないのに。
  
 それはどういうことか?
 私は、REVさんのコメントは「問題提起」として成立していて、詩を否定するには「統計的事実」を否定するか「宗教」を選択するかしかない、と言いました。
 詩を否定するならば、「統計的事実」を否定するか「宗教」を選択するか、そのどちらかを考えさせる「問題提起」として、価値のあるコメントだったと言うのが、私の主張です。
 「DQNの子はDQN」という「ことわざ」が世間知として共有され、人間が環境によって形成されるとわかっている以上、「統計的事実」をただ「嫌いだから」と斬って捨てることは「宗教的選択」と言えるでしょう。何故にそのような世間知が多少の説得力を持つのか? あの「詩」を否定したいのならば、「統計的事実」を否定するのが「科学的」な態度だという主張です。
 「統計的事実」を否定するのは、その結果の数値を再追試で近似値が再現されるか実験しても良いし、因果関係性に疑問を呈しても良いし、有意差の幅の再検討をしても良いし、その方法はいくつかあるでしょう。
 そして、多くの人が「科学的」な「統計的事実」として疑問を持つコメントやエントリを書いた。わざわざそれを書こうとした。
 それはどういうことかというと、それは「問題提起」として価値があった、ということに他なりません。
 「問題提起」として価値がないというのであれば、そもそも「統計的事実」の内容についてまともに考える必要すらないからです。
  
 『詩を否定するには「統計的事実」を否定するか「宗教」を選択するかしかない』という私の主張に賛同して、私の主張通りに、皆さんは「統計的事実」を否定する努力を払っている。
 私の主張に沿った行動を取ってくれているようなのに、何故か、その私の主張通りのことをしながら、私に反論しているつもりのように見受けられる人が何人もいるようです。
 私は非常に面喰らいました。
 何人かの人が「統計的事実」を否定する努力をしている時点で、私の主張する「問題提起として成立している」という主張を認めているようなものじゃないか。
  
 また誤読する人が出てくるといけないので書きますと、私自身は、あの「詩」の傾向について、「非科学的だから統計的事実ではない」という認識にはいません。
 繰り返しますが、世間知としてそういう傾向はあるよね、という偏見を持っています。
 「そんな世間知や偏見や傾向など無い」と言い切るのは、まぁ、非常に難しいでしょう。
 その偏見は「差別的」であり、また「非科学的」という批判が出るとするならば、私は差別的であることが必ずしも悪いことであるとは全く思わないし、「科学的留保」などよりも「世間知」を利用するぐらいの世間知は備えています。
 その上で言えば、あの「詩」の内容が「事実」であるかどうかなど、あの「詩」の書かれた目的を考えれば、ある意味、どうでもいいことだと言えるでしょう。
  
 私の書いた文章を誤読して、私に反論するつもりで「統計的事実」の考察をされた方々は、私の主張する「問題提起として考察に値する」という主張を裏付けているわけで、その人数の多さに面を喰らったわけです。
 「統計的事実」の如何について、考察するだけの価値が生まれるほどに、「世間知」の説得力があったのだと私は考えていますし、また、「人間」が環境の影響下にあることは間違いのないことであって、その環境の中でも親の影響は少なからざるものを持っているのは当然だと、多くの人間が知っているから、先の「詩」が広く受け入れられる理由の一つであると言えるでしょう。
  
 つまり、敢えて私の考えを纏めるならば、この件では「統計的事実」の是非はともかく、世間知という「宗教」を選ぶ、というものです。
 私自身が「科学的事実」だと主張していると誤読をしているかのような反応がこれだけあったことには、大いに面を喰らった次第です。